Fateのエンディングについて少々

一般論として『Fate/stay night』をクリアした後で、このゲームにおける3ルートのEDの関係性とか、バットエンドと正規エンドを分けるものとは何かというのは考えさせられるところだと思います。結局、このED間の関係性というのは全くのメタ解釈であって、テキストから答えを導くことは出来ない性質のものです。そういう意味で、考察というよりは妄想なのですが、今書いておかないと後では恥ずかしくて書けなくなりそうなので、少し書いておきます。
3ルートのEDの関係性について言うなら、ルート規制の意味というのは起承転結であってFate→UBW→HFという順は、主人公である衛宮士郎の歪みが治癒していく物語なのだ。という読みが一般的なのかなとは思います。
まあ、この解釈を物語中で否定するのは不可能でしょう。特にHFは、二つのルートを混ぜ合わせている関係上テキスト量は多いですし、そういう事情を考えればシナリオの粗を探しても意味がない。私がどれほどFateルートの完璧さを称えたところで、個人の好みの問題に集約されてしまわざるえないでしょう。
しかし、『Fate/hollow ataraxia』を視野に入れるなら、話は違ってきます。この作品において3ルートは重なり合う平行世界として平等に扱われています。そして何より、この作品世界はFateルートに近い運命をたどった世界なのです。もし、『Fate/stay night』が士郎の歪みの治癒を重視した物語であるなら、このようなFDは作られないのではないでしょうか。
そこで私は、Fateルートを中心に考えた作品解釈を提案してみたい。ホロウから分かるようにFate、UBW、HFは等しい存在価値を持っています。どれもが起こりえたことであって、そこに優劣は存在しえないでしょう。この立場からルート規制の意味を考えた場合、この3ルートを分けるものは発生確率でないかと私は思うのです。
喩えるなら、士郎はピンボールの玉であって、運命の夜という台に打ち込まれる存在と考えてみてください。多くの玉はFateの周りに集まるでしょう。ですが時にはUBWの方へと弾かれていくかもしれません。そして稀なことですが、HFに落ちていくこともあるのです。
もし、無限に試行することが出来るのであれば、全ての出来事もまた無限に起こりえるという意味で、この3つのルートは平等でしょう。もちろん、それはバットエンドにおいても同じことです。*1むしろ、運命の夜に翻弄される士郎の儚さもまた、この物語の主題の一つと考えるべきではないでしょうか。
そして、この解釈は士郎の歪みについて正反対の答えを導き出します。ここに見出されるのは、悪戦苦闘の果てに自らの歪みを直すにいたる士郎というよりは、HFという希少な確率においてすら、一度死ななければ歪みを直せない士郎であり、それは逆説的に衛宮士郎の歪みがどれほど直りにくいものであるかを表現していると考えられるのです。
Fateは文学!以上

*1:HFにおけるバットエンドの一つが士郎にとってのEDでありえるなら、それと同じ番号で管理される他のバットエンド群も、少なくとも正規EDに近い存在価値を持つのではないか。