雑記その2
- 作者: 冬原パトラ
- 出版社/メーカー: ホビージャパン
- 発売日: 2015/05/22
- メディア: Kindle版
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二年ぐらい前に言語化しようとして意味不明なポエムに堕したことあるんですけど、今なら24分の中にその一部が宿っているのでズルしてしまえば、なろうにおける最大の問題は「あれ」です。
現象面から緩く記述するなら、いわゆるテンプレ展開にテンプレ展開をつなげて更にテンプレ展開を。という風に無限コンボを形成すると、何故か脳みそが勝手にそれを「虚無」と認識して、テンプレ展開以上の意味が物語を覆うみたいなことです。
もちろん、テンプレをテンプレと認識するには読者側の予備知識が必要なわけで、作者がコンボをつなげたつもりでも読者側ではコンボが成立していないということも多々起こりうる偶発的な現象です。ただ「なろう」というプラットフォームに集う読者相手ならば、ある程度まで狙って起こせる技術の領域の話になりえます。そして技術である以上は良し悪しがつき、なろうのランキングシステムがその洗練を後押ししていく。
結果として、ある意味ではとてつもなく「薄っぺら」で「軽い」小説たちが生み出される。けれど、この小説たちは厚みを持とうとして失敗したわけでも重さの意味を取り違えたわけではなくて、最初からそこから離れようとして今の形になっている。だから「薄っぺら」も「軽い」もそれだけでは性質の記述であって、その奥に潜む異世界めいた何かにまで目をやらないと真の意味で向い合ったことにならない。
しかし、その何かの正体は?とたずねられれば答えるのは極めて難しい。この「軽薄さ」はあくまで技術の問題であって思想に裏打ちされたものではないし、ランキングという名の共同化された欲望の底を漁るのは私の手に余る。だからズルを重ねて他の人の意見を借りると
「人間はどうしてテレビ(アニメ)に出ないの?」
「人間は失敗するし打たれ弱いから使い勝手がワルいんだってさ」
『惑わない星』 第四話
がかなり正解に近い気がする。もちろん否定されているのは現実世界にいる私たちではなく、物語世界の「人間」ということになるでしょう。「重厚さ」というのは物語の中で「人間」を表現するためのテンプレに過ぎず、「人間」が否定される物語では必然「軽さ」や「薄っぺら」が肯定的な価値を持ちうるという寸法です。
あらゆる物語は人間のために書かれているのに「人間」を否定するなど意味不明だという意見もあるでしょう。だけれども私たちの大半は気がついているはずです。人間は「人間」のように生きることなど出来ないと。偽りにまみれ悪をなす醜い私たちと「彼ら」の間に相似があるなどご都合主義の妄想であると。
彼らからすればこちら側こそが語るに値しない「虚無」なのだ。とかそんなお話。*1
*1:転トラの無い世界で物語の「重力」から逃れるのは今のところ空想科学じみたお伽話ではある。
雑記その1
- 出版社/メーカー: light
- 発売日: 2015/04/24
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- 前書き
数か月前の自分は下の文章をノリノリで書いていたはずで、今も内心ではこれで最低限のラインには到達してると思っていたりもするのだが、久しぶりに更新したら電波が増したなと思われるとアレなので補足。
いわゆる「人間賛歌」には二種類の態度がありえて、序段には序段、破段には破段の「人間賛歌」があるという穏便な立場と、「人間賛歌」というのは終段のみを意味するのであって、たとえ急段であろうと終段に至っていないなら無に等しいという厳格な立場が想定できる。*1下の文章は後者の立場で書いているので、プレイヤーとのコールアンドレスポンスめいたものとか論理展開上の文飾でしかないのだけど、石神静乃は盧生ではないのだから、彼女の物語に相応しい「人間賛歌」があるという読みも当然にありうる。
そして言うまでもなく、このようなエクスキューズが発生する余地こそがまさにある種の価値観において「憧憬」が物語世界から取り除かれなくてはいけない理由である。
- 本文
今更ながらに『相州戦神館學園万仙陣』をクリアしたのだけど、拗れているというのが正直な感想であったりする。
この作品のクライマックスはヒロインである石神静乃の「憧憬」をめぐるアレコレなのだが、静乃の抱えている問題は一つの特殊例であって、それを乗り越えてみせたところで「万仙陣」を通して煽られて続けている二次創作的な想像力全般に対する答えとして不足なのは明らかだろう。
もちろん、正田崇というシナリオライターは風呂敷をたたみ切ることにさほど定評があるわけもでもないので、そういうものだと処理してしまうことも出来る。ただプレイした人間なら分かるように、このゲームの実質的な主人公は石神静乃であり、わき目を振る余地はほとんど残されていない。だからおそらく順序が逆なのだ。「万仙陣」の中から「憧憬」が見いだされたのではなく、「憧憬」を扱う舞台装置として「万仙陣」が用意されたのである。
しかし、この逆説は議論を振り出しに戻してしまう。何故に、数ある二次創作的な想像力の中で「憧憬」がことさらに問題になるのか?その答えを得るために私たちは少しばかり作品の外へ出なければいけないだろう。
憧れは理解から最も遠い感情だよ
『BLEACH』の中で藍染惣右介がこの台詞を語ってから、私を含めて多くの人たちがこの言葉の強さを愛してきた。にも関わらず、その言葉の射程を正確に測ろうという試みは驚くほど少ない。
弱く見えることを恐れずに言えば、「憧憬」とは十年の月日を超えて少年ジャンプという桃源郷の外から「憧れ」に付された注釈なのだ。そして、かつて否定されたものを一つの作品を通して再び否定しなければいけない執拗さと、その否定を通して肯定されなくてはいけない価値がこの作品の根幹である。何とも拗れているのだ。言うまでもなく、中二病が。
では「憧憬」の何が中二病的な価値観にとって問題なのか。
憧れて、夢見て、胸に生まれた想いは真実。その熱さえ信じられたら、もうそれで充分だろ?
そこにあった。真は確かにそこにあったんだ。彼らと繋がって仲間になれたし、本を閉じたからといって色褪せるようなものじゃない。
それを信じず、妄想に逃げて、なあ……どこに絆があるというんだよ。
せっかく築いた宝物を、自ら捨てようとしているのはおまえじゃないか。
おまえの行きたがっている所こそ、何も無い。
無いんだよ、静乃……
上記の台詞における理路を辿るなら、作中で否定されているのは、夢に溺れて現実を生きないこと。あるいはその裏返しの態度として、夢を夢として切り離して現実の中に活かさないことである。ここから容易く導き出されるのは、物語を受容している私たちの態度が問題になっているという理解だ。虚構を虚構として切り分け、娯楽として消費する態度が批判されていると読むことは、「万仙陣」という作品の構造上可能だろう。何せここで石神静乃が言及している本というのは、柊四四八たちの物語──要するに「八命陣」なのだ。
だがこの理解は少しばかり直接的過ぎるように思う。どれほど頑張っても現実の私たちはおそらく腕に暗黒の炎竜をまとわせることも液体窒素を使って華麗な逆転劇を起こすこともできない。もし物語を真に受けろと要請するのであれば、まず先に物語の側が真に受けやすい様式を備えるのが筋というもので、「万仙陣」はそのスタート地点に立つ努力をしているかすら怪しい。*2
石神静乃は確かにプレイヤーとキャラクターの間にいるかもしれないが、両者を仲立ちするためには彼女はあまりに特殊な設定にまみれていて、真面目に考えれば考えるほど、「彼女の八命陣」と「私たちの八命陣」の違いが際立ってくる。
連夜の夢に踊らされる一般生徒たちを私たちの似姿と捉えたところで、その結果は精々が妄想に揺蕩う盲目白痴の人間(ばけもの)であり、クトゥルー由来のクリシェと萌え豚のお手軽な融合ではメインを張るには力不足だろう。
つまり、ここで最大の焦点になっているのは私たちの態度ではなく、あくまでキャラクターの「態度」なのだ。もっと正確に表現するなら、問題は私たちの態度ではなく、私たちの態度を肯定してしまうようなキャラクターの「態度」なのだ。
私たちは英雄になれない。だから作品の中にも英雄になれずとも認められるキャラクターが必要だ。
私たちは英雄の物語に憧れるだけだ。だから作品の中にも英雄に憧れるだけで良しとされるキャラクターが必要だ。
だから雛森桃は無残に使い捨てられなくてはいけないし、石神静乃は夢から醒めねばならない。*3彼女たちの世界は努力と友情と勝利だけで出来ているべきなのだから。
妖怪と小説家
- 作者: 野梨原花南,けーしん
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/富士見書房
- 発売日: 2015/12/11
- メディア: 文庫
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『イバラ学園王子カタログ』における最後の総括の艶消し振りを読んだときは、編集の求めに応じて敢えて台詞で語らせたのだろうと勝手に思っていたのだけど、今作の菊池寛や宮沢賢治の台詞における直接性を見るに、より分かりやすく多くの人に伝わるような形を作者としては追及しているということなのだろう。
ただ個人的な意見を言えば、野梨原華南の最良の部分というのは
「本当ですとも。さあ、お化粧をして、綺麗な服を着て、おいしいものをたべて、音楽を聴いて踊って、陰口をたたかれてしまうぐらい楽しく生きてしまいましょう」
『妖怪と小説家』 伍より
という一連の部分に代表される極めて善性の高いメッセージを物語の中に溶かし込むことの出来る希少な才能なのだ。紅茶に限度を超えて砂糖を入れたときのように、あまりに直截な表現は溶けきらぬ口当たりの悪い部分を残してしまうような気がしてならない。もちろん、上述の全てが作品に選ばれなかった人間の恨み言に過ぎないわけだけれど。
『くま クマ 熊 ベアー』を読んで思ったこととか。
- 作者: くまなの
- 出版社/メーカー: 主婦と生活社
- 発売日: 2015/06/05
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かつてエロゲに費やしていたリソースの半分くらいを「小説家になろう」に傾けて久しいのだが、いまいち感想などは書けないでいる。理由は色々とあるのだけど、大きななものの一つに『異世界迷宮で奴隷ハーレムを 』についての評価が定まらないというものがある。
疑うべくもなく『異世界迷宮で奴隷ハーレムを 』は怪物じみた作品である。しかし、怪物を怪物だと言ったところで、何も言ったことにはならない。求められるのは、その異形を正しく描写するための方法論であって、私は未だそれを持たないし、これから先で手に入れることが出来るかも大変に怪しいところだと思う。*1必然、その異形を色濃く引き継ぐ物語たちに対しても口を噤まざるえないわけなのだが、『くま クマ 熊 ベアー』には閉ざされた口を開きたくなるような軽やかさがあった。*2
「かわいいは正義」という言葉がある。検索エンジンに頼ると「鉄兜は重い」が「重いは鉄兜」ではないという旨の注釈が出てくるが、これは一見正しいようでいて、「かわいい─正義」の持つ極限的な可能性をあまりにも無造作に切り捨ててしまっていると思う。
「正義は可愛い」が成立しないと言い切れるのは、「正義」が「可愛い」と無関係に定礎されている世界でのことに過ぎない。それはただ単に無数にある世界のバリエーションの一つでしかないはずだ。
私たちはトラックに跳ね飛ばされながら*3、善/悪を分かつ要石の姿形がクマの形をしていることを夢に見ている。それは間違いなく甘美な夢だ。気がかりは一つだけ。「美醜逆転」の四文字ではあるが。
5秒童話
- 作者: 第年秒
- 出版社/メーカー: 集英社
- 発売日: 2015/07/03
- メディア: コミック
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マンションの屋上から落ちていく間に通り過ぎていく部屋の様子を通して主人公が墜落の真相を探り当てていくという「形式」によって、作者は物語の中の情報にある種の秩序を与えることに成功している。*1猫しかいない部屋も、美女たちが着替えをしている部屋も、クラスメートが拉致監禁を企てている部屋も、部屋という同一の規格の中で提示されているという面では平等だからだ。言い換えるなら、部屋という単位が一種の「文字」となって『5秒童話』という作品にフェアなミステリが成立するための土台を与えているわけである。
とはいえ、本作が精巧な土台の上に築かれた精巧なミステリであったかと言えば、残念ながらそういうわけでもない。*2連載という形を取った以上は仕方がないのかもしれないが、アメコミの件は後半に詰め込み過ぎだし、メガネの件は反則に等しいだろう。
しかし、それを差し引いても、プラスの方が際立つ作品だとは思う*3。良作。
『その可能性はすでに考えた』について適当に
- 作者: 井上真偽
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2015/09/10
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デスゲームものというサブジャンルを現代ミステリの領域の一角に置くとするなら、その極めて特殊なバリエーションに属すると言うことは出来るだろう。何が特殊なのかと言えば、ゲームへ参加する動機である。普通のデスゲームものは金銭欲や死への恐怖でプレイヤーをゲームへと駆り立てるのが普通だが、この小説の登場人物である上笠丞とカヴァリエーレ枢機卿*1にはそのような強制が存在しないのだ。*2要するに、彼らはこの誰が見ても不毛としか思えない営みを自主的に行っているわけである。
だからこれは、一人の金も権力も持ち合わせた狂人が電波の波長が奇跡的ほどマッチした相方を見つけて、恥も外聞もなくイチャイチャしている物語なのだ。ということも出来る。
「わかるか、カヴァリエーレ……僕たちは本当は対立していたのではない。この対立を通じて、一つの事実を共に証明しようとしていたのだ。」(P.244)
そのような視点から見ると、上記からの台詞はカヴァリエーレへの愛の言葉ということなる。*3しかし、普通に考えるなら「この対立」という言葉は、小説内において反復された「推理披露→矛盾指摘→次敵登場」という一連のシークエンスを指示対象に含んだものだと理解されるだろう。
ここでで問題なのが、この一連のシークエンスというものが物語構造といったメタ的な要素を含むのか。ということである。おそらくだが作内において「この対立」という言葉を積極的にメタ発言として理解するべきだと示唆する文章はない。だから、この作品にメタミステリの要素を読み込むのは、どちらかという誤読である。
しかし、先に指摘したように『その可能性はすでに考えた』を何処までもベタに読んだとき、残るのは狂人たちによって築かれた無意味な空理空論の山でしかない。*4何より、私たちは本作を読んでいるとき、作品の荒唐無稽さを「ミステリ」というバイアスを通して処理していたはずなのだ。
もしこの物語を狂人たちの戯言以上のものにしたいと望むなら、私たちは作者によって提示されたゲームのルールに同意しなくてはならないだろう。だがその一歩の歩み寄りで*5、物語はミステリの名の下で聖別され、「この対立」は狂気から福音へと書き換わるはずだ。
あるいは、それこそが奇跡なのかもしれないないとか、何とか。