雑記その1

  • 前書き

数か月前の自分は下の文章をノリノリで書いていたはずで、今も内心ではこれで最低限のラインには到達してると思っていたりもするのだが、久しぶりに更新したら電波が増したなと思われるとアレなので補足。
いわゆる「人間賛歌」には二種類の態度がありえて、序段には序段、破段には破段の「人間賛歌」があるという穏便な立場と、「人間賛歌」というのは終段のみを意味するのであって、たとえ急段であろうと終段に至っていないなら無に等しいという厳格な立場が想定できる。*1下の文章は後者の立場で書いているので、プレイヤーとのコールアンドレスポンスめいたものとか論理展開上の文飾でしかないのだけど、石神静乃は盧生ではないのだから、彼女の物語に相応しい「人間賛歌」があるという読みも当然にありうる。
そして言うまでもなく、このようなエクスキューズが発生する余地こそがまさにある種の価値観において「憧憬」が物語世界から取り除かれなくてはいけない理由である。

  • 本文

今更ながらに『相州戦神館學園万仙陣』をクリアしたのだけど、拗れているというのが正直な感想であったりする。
この作品のクライマックスはヒロインである石神静乃の「憧憬」をめぐるアレコレなのだが、静乃の抱えている問題は一つの特殊例であって、それを乗り越えてみせたところで「万仙陣」を通して煽られて続けている二次創作的な想像力全般に対する答えとして不足なのは明らかだろう。
もちろん、正田崇というシナリオライターは風呂敷をたたみ切ることにさほど定評があるわけもでもないので、そういうものだと処理してしまうことも出来る。ただプレイした人間なら分かるように、このゲームの実質的な主人公は石神静乃であり、わき目を振る余地はほとんど残されていない。だからおそらく順序が逆なのだ。「万仙陣」の中から「憧憬」が見いだされたのではなく、「憧憬」を扱う舞台装置として「万仙陣」が用意されたのである。
しかし、この逆説は議論を振り出しに戻してしまう。何故に、数ある二次創作的な想像力の中で「憧憬」がことさらに問題になるのか?その答えを得るために私たちは少しばかり作品の外へ出なければいけないだろう。

憧れは理解から最も遠い感情だよ


BLEACH』の中で藍染惣右介がこの台詞を語ってから、私を含めて多くの人たちがこの言葉の強さを愛してきた。にも関わらず、その言葉の射程を正確に測ろうという試みは驚くほど少ない。
弱く見えることを恐れずに言えば、「憧憬」とは十年の月日を超えて少年ジャンプという桃源郷の外から「憧れ」に付された注釈なのだ。そして、かつて否定されたものを一つの作品を通して再び否定しなければいけない執拗さと、その否定を通して肯定されなくてはいけない価値がこの作品の根幹である。何とも拗れているのだ。言うまでもなく、中二病が。

では「憧憬」の何が中二病的な価値観にとって問題なのか。


憧れて、夢見て、胸に生まれた想いは真実。その熱さえ信じられたら、もうそれで充分だろ?
そこにあった。真は確かにそこにあったんだ。彼らと繋がって仲間になれたし、本を閉じたからといって色褪せるようなものじゃない。
それを信じず、妄想に逃げて、なあ……どこに絆があるというんだよ。
せっかく築いた宝物を、自ら捨てようとしているのはおまえじゃないか。
おまえの行きたがっている所こそ、何も無い。
無いんだよ、静乃……

上記の台詞における理路を辿るなら、作中で否定されているのは、夢に溺れて現実を生きないこと。あるいはその裏返しの態度として、夢を夢として切り離して現実の中に活かさないことである。ここから容易く導き出されるのは、物語を受容している私たちの態度が問題になっているという理解だ。虚構を虚構として切り分け、娯楽として消費する態度が批判されていると読むことは、「万仙陣」という作品の構造上可能だろう。何せここで石神静乃が言及している本というのは、柊四四八たちの物語──要するに「八命陣」なのだ。

だがこの理解は少しばかり直接的過ぎるように思う。どれほど頑張っても現実の私たちはおそらく腕に暗黒の炎竜をまとわせることも液体窒素を使って華麗な逆転劇を起こすこともできない。もし物語を真に受けろと要請するのであれば、まず先に物語の側が真に受けやすい様式を備えるのが筋というもので、「万仙陣」はそのスタート地点に立つ努力をしているかすら怪しい。*2
石神静乃は確かにプレイヤーとキャラクターの間にいるかもしれないが、両者を仲立ちするためには彼女はあまりに特殊な設定にまみれていて、真面目に考えれば考えるほど、「彼女の八命陣」と「私たちの八命陣」の違いが際立ってくる。
連夜の夢に踊らされる一般生徒たちを私たちの似姿と捉えたところで、その結果は精々が妄想に揺蕩う盲目白痴の人間(ばけもの)であり、クトゥルー由来のクリシェと萌え豚のお手軽な融合ではメインを張るには力不足だろう。

つまり、ここで最大の焦点になっているのは私たちの態度ではなく、あくまでキャラクターの「態度」なのだ。もっと正確に表現するなら、問題は私たちの態度ではなく、私たちの態度を肯定してしまうようなキャラクターの「態度」なのだ。
私たちは英雄になれない。だから作品の中にも英雄になれずとも認められるキャラクターが必要だ。
私たちは英雄の物語に憧れるだけだ。だから作品の中にも英雄に憧れるだけで良しとされるキャラクターが必要だ。

だから雛森桃は無残に使い捨てられなくてはいけないし、石神静乃は夢から醒めねばならない。*3彼女たちの世界は努力と友情と勝利だけで出来ているべきなのだから。

*1:この厳格さは、おそらく参照先としての人類の不在を恐れないことでしか達成されない類のものだが

*2:もちろん、作品世界がいかに非現実的であろうとその物語から影響を受ける人間は一定数いるだろう。しかし、それは結果としてそうなのであって、作品側が声高に訴えるのはいかにも調子外れである

*3:言うまでもないことなのだが、雛森桃もまた英雄に憧れる「だけ」のキャラクターではない。彼女をその潜在性において断罪してしまう潔癖さこそが全ての始まりなのかもしれず