ある喪失の経験

世界は金色に輝いた、その瞬間から、色褪せゆく過去へと変じていく。ボクたちの手に残るのは、いつも取り返しのつかないものばかりだ。そんな悲観論がこの作品に似合わないと思うなら、すぐにチャンネル廻すことをお勧めしよう。これからボクが書くのは、過去にしか通じない行き止まりの言葉だ。
物語の最後、統合ルートにおいて主人公である羽田鷹志は、自らの過去を思い出す旅に出る。そこで鷹志の前に現れるのは、更地になった学校であり、変わり果てた初恋の女性である。一点にたたずみ全てを受け入れる彼の姿は、作品中で見ると明らかに異質だ。集った翼が未来への象徴であり「動」きと共にあるとするなら、このシーンは「静」止によって形作られている。だが、このシーンは異質であるからこそ、俺つばという物語を象徴している。
もし年寄りの回顧を許してもらえるなら、この場面を見て最初に浮かんだのは『ONE』であると告白したい。たぶんこれは誰かが嘆いた偽史の一種、蛸壺ってやつに違いない。だけど屈折した過去への憧憬というモチーフにおいて、『ONE』という作品を見逃すことはボクには出来ない。だからドン詰まりの文章をもう少し続けよう。
思えば王雀孫というライターを世に知らしめた『それは舞い落ちる桜のように』にも、記憶の喪失という『ONE』を匂わせるガジェットが存在した。本来なら二作目になるはずだった俺翼に何かが潜ませてあっても別に不思議はない。『ONE』の主人公が世界から消えていくように、プレリュードのOPは消えていく人格たちが最後に撮っている構図に思える。グレタガルダとえいえんのせかいって。そう書き連ねても牽強付会の誹りは免れないだろうから、少し絡め手を弄してみたい。
『ONE』というゲームには有名なネタ元が存在する。言わずと知れた村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』だ。この小説は「ハードボイルド・ワンダーランド」と「世界の終わり」という二つの物語から出来ていて、作中で「世界の終わり」とは「ハードボイルド・ワンダーランド」の主人公の心の世界であることが明らかになるという筋立てをしている。この作品で問題になっているのは、現代の職業人が心を疎外しながら、日々を生きているってことだ。自分だけに出来るクリエティブな仕事の代わりに、すぐに誰かと変われるオルタネティブな仕事。本当の自分は何処にいるんだろう。生きるってことは中々にしんどい。
そんな小説を受けた『ONE』の大きな相違点は、主人公が学生なったことだろう。具体的な労働の代わりに加わったのは、思春期的な情動。心を押し殺してくるのは、もっと得体の知れない不安になった。日々を平和に暮らしながらも、何故かみんなに忘れ去られてしまった主人公の浩平は、えいえんのせかいに佇んで消え去る前の日々を眺めることになる。そこに象徴されるのは、漠然とした生きづらさであり、どこか苦い過去への憧憬だ。
だけど、それは先に進むために必要な儀式なのかもしれない。どんな楽しい出来事も、記憶の中で少しずつ滲んでいくことを止めることは出来ないし、自分は何か特別な存在なわけでもない。現実を生きることは、それを受け入れることでもあるのだ。
鷹志があのシーンで感じたのも、きっとそんな事実だ。それはボクたちに向けられた寓話である。童話が子供に美しいものを教えるように、このメルヘンは少しばかり苦さを告げる。世界は金色に輝くかもしれないが、それは世界の優しさを意味するわけではない。ボクたちは無敵のホーク卿にはなれないから、ちょっとしたことで傷ついてゆく。
『俺たち翼はない』は、そういう何処にでもある生きづらさを書いた物語だ。彼らの物語は終わった。金色に輝く未来にはキスを、薄れゆく過去には弔花を贈ろう。その上でボクたちは現在を生きていこう。このメルヘンは、きっとそんな結末がよく似合う。