スマガスペシャル

スマガスペシャル

スマガスペシャル

ニトロプラスが十周年という節目に出した『スマガ』は、エロゲにおけるメタやループといった様々な要素を、一つの物語に集約しようという意思において意欲的な作品です。
しかし同時に、その集約に一つの大きな要素が欠けていたことを指摘するのは容易いでしょう。それはニトロプラスというメーカーが避けていた古くは『ToHeart』に代表される「日常」という要素です。
もちろん、それは意図されたものであり、賛否はあるにしても過失を指摘することは出来ないでしょう。
その上で私がFDである『スマガスペシャル』という作品に期待したのは、『スマガ』で書かれなかった「日常」でした。繰り返させる「十月二日」は『ビューティフルドリーマー』の例を引くまでもなく「日常」を象徴しています。ですが、スマスペで示されたのは「日常」そのものではなく、そこに至るまでの軌跡を描いた物語でした。
自らの来歴を忘却した主人公。デネブとカペラの二人きりのセカイに、他のキャラクターたちを付け足していくことによって出来上がっていく永遠の一日。100%を目指し、抜け落ちた部分を埋めていくゲームシステム。この作品を駆動させているのは多重の欠落であり、それを埋め合わせた先に、ハッピーネバーエンドが存在するとされています。
一つの作品の中で「日常」を組上げること、「日常」を形式に還元した上で再構築すること、これこそがスマスペによって意図されたものでした。しかし正直なところ、私にはスマスペが「日常」という要素の再現に成功しているようには思えませんでした。
確かに「日常」という曖昧な概念を解体すれば、複数のイベントとそれによるキャラクター間の有機的な関係性の発露に落ち着くのかもしれません。イベントを積み重ね、キャラクターの知られざる側面を垣間見るシークエンスの連続こそ「日常」の核なのでしょう。
ですが、文化祭の前日が価値を持つのは、どこまでも「文化祭の」前日だから過ぎません。文化祭という時点から前日を見たとき、そこに価値が見出されるのは、もはや過ぎ去ってしまった楽しい日々だからであって、完璧な1日だったからではないはずです。自己目的化した「日常」は、ただの弛緩した時間の経過に堕ちてしまいます。
むしろ、それこそがスマスペの主張だと考えることも可能でしょう。例えば、ハッピーエンドにおいてデネブとカペラは、スピカによって復活した88人の魔女の内に飲み込まれてしまいます。これは確かに一つの結末ではありますが、何故こういうEDである必要があるのでしょうか。無数のセカイの中には、きっと彼女たちが主役になれる物語もありえたに違いないのに。
勘ぐりと言われるかもしれませんが、ここで示されているのは、デネブとカペラの物語の矮小さではないでしょうか。本編からすれば、この程度の物語に過ぎないのだと、それを引き伸ばしたものがハッピーネバーエンドの正体に過ぎないのだと、このエンディングにはそういう批判が存在しているように私には感じられるのです。
スマスペの批判は、進みゆく物語のはざ間でしか、失われることを前提としてしか、「日常」を見出すことが出来ないボクのような人種にとって正鵠を打ったものではあります。ですが、この批判はありふれたもので、わざわざ何時間ものプレイの先に存在ほどの重要性を持ち合わせてはいないでしょう。
確かにスマスペの特異な展開は『Fate/hollow ataraxia』や『リトルバスターズ』といった類似の構造をもった先行作品が、否定によって彼方へと追放した「日常」を、あるがままに留めることによって、一種のカウンターとしては機能しているでしょう。しかし、スマスペはカウンターであることに拘りすぎて、空回りしてしまった作品であるように思えます。少なくとも批判された「日常」に匹敵するだけの何かを、私はこの作品の中に見出すことが出来ませんでした。
結局のところ、多くの枠を突き破りながら進んできたスマガという作品が、どうしても突き破れなかったもの、それがニトロプラスというブランドカラーだったのかもしれません。『スマガスペシャル』に真に足りなかったのは、恥ずかしげもなく真正面から「日常」をキャラクターに演じさせる面の皮の厚さだったのではないか。そう結論して、この文を閉じたいと思います。