キャラクターが病むということ・序文

この記事を書いた時、自分の頭にあったのは、「公」と「私」みたいな使い古された道具で、邪悪ヒロインを説明できるのではないかということだった。
つまり、その二つの区別が存在しないことが邪悪ヒロインの持つ、ある種の純真さの理由であり、そういう日常的なシステムから開放された存在として、崇拝に似た感情を発生させるのが邪悪ヒロインの魅力の真髄なのだ。みたいな記事を書こうと思っていたのだ。
しかし、その計画は頓挫してしまった。理由は簡単である。私にはキャラクターの持つ「私」というものが、どうしても自分に馴染む概念として定位されなかったのだ。もちろん、キャラクターに内面性など無いと言い切ることも可能ではある。だが、私はまたヤンデレという概念に属するキャラクターに魅力を感じる種類の人間なのだ。
私は「キャラクターが病む」という言葉を感覚的に把握している。であるならば、存在しないものは病みえない以上、キャラクターの内面性は、少なくとも私には存在する何かなのだ。それを自分にとって自由に扱える概念にしたいというのが、今回の記事の主題である。
まあ、勝手に自分探しでも何でもやってろ。という意見はありそうですが、それなりにヤンデレ考察を読んで見て、魅力について細かい分析が行われている反面、大上段から偉そうにヤンデレって言うのは的な記事が少なくて、考察厨の端くれとして寂しかったので、賑わかしも兼ねて書いてみることにしました。問いの設定そのものは割とヤンデレの根本な気もするので、何か小話の種になることが書ければ幸い。
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