チャッピー

もはや半年に一度の生存報告になっている感もありますが、気にしない方向で。

チャッピー

チャッピー

サイコ―。の一言に尽きる。
もし日本版は無粋な検閲がかかっていて、見るに値しないと思っている人は、今すぐネットで削られたシーンを確認した後、映画に直行すべきだと思う。
削られたシーンは間違いなく重要だが、演出の意図は明白で、シーンそのものの存在を知っていれば疑いようもなく脳内で補完できる類のものでもある。完全なものが望ましいにしても、映画館でこの映像を見る機会を失うのはあまりにもったいない。
本作は極めてオプティミズムに満ちたSFである。「意識」の取り扱い一つとって、現代SFの薫陶を受けた者なら、その無邪気さに醒めた視線を送らざるえないだろう。だが同時に、この楽観主義こそがSFに起源ではなかったかとも思うのだ。
科学はもはや人間の幸福とは関係が無い次元で駆動しているというのも一つの事実ではあるだろう。しかし、闇雲な恐怖だけで自らの創り出したものと触れ合うのは、間違いなく愚かしいことであるはずだ。
監督であるニール・ブロムカンプは出世作である『第九地区』で「人間のどうしようもなさ」を描いた。比して『チャッピー』は「人間はどうしようもない。だから、どうした」という映画であると思う。
あるいは、これは一つの後退であるのかもしれない。けれど、私にとってスクリーンと向き合った二時間あまりが、疑うべくもない幸福な時間であったことは間違いがない。秀作。

ユリ熊嵐・一話のとりとめもない雑感

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良く分からなかったというのが素直な感想だったりする。
公式HPのキャラクター紹介を見ると、トップに来るのはクマである百合城銀子なので*1、椿輝紅羽の物語一本で行くのか、もう少し群像劇風に行くのかは二話を以降を見ないと、判断がつかないところではある。
とはいえ、椿と言えば紅であり、百合と言えば白なのだから、作中における椿輝紅羽の特異性は名前からして明らかで、それが百合であり、城(しろ)であり、(白)銀である主人公と響き合うことは間違いない。
逆に一話で謎の失踪をとげる泉乃純花という名前を見て、最初に想像するのは個人的には水栽培の代表格であるヒヤシンスであって、ユリ科に属する花とはいえ、少し毛色が違うという位置づけなのかなと思ったりする。
ウテナ好きとしては、紅羽と純花を見て思い出されるのは、有栖川樹璃と高槻枝織であることは避けれない事態ではある。屋上にいる純花を見て彼女の自死の可能性を考えざるえない紅羽と、屋上で独り自分の好物をついばんでいた純花を比較すれば、どちらがより生きる力に満ちているかは考えるまでもないだろう。
透明な嵐は端的に取るなら、イジメであるわけだけど、抗いがたい同調圧力ぐらいにしておいた方が、より普遍的なのかなとは思う。
正直、クマが何を意味するのかを取り損ねている感触がある。嵐が丘学園の制服と、クマたちが変身した後の扇情的なコスチュームを見比べれば、そこにリビドー的な要素を読み取るのは容易なわけだけど*2、百合城銀子はおそらくヒースクリフト役なわけで、荒々しさとか、複数のレイヤーが想定され、どの程度の射程を考慮すべきなのかが悩ましいところな気がする。
形式的に見れば、紅羽━純花の間にあるS的な悲恋の物語と、紅羽━銀子の間に想定される別の物語が拮抗して、嵐になるということなのかなとか。
「わたしはクマを許さない」と言いつつ銃弾を打つ紅羽のシーンから、LOVE BULLETと記されているアイキャッチに入るのは、おそらく、そのままの意味なのだろうなと思う。
屋上の螺旋階段は、人が登っていくとき白い鳥たちは下降していき、人が降るとき鳥たちが上昇していく。鳥が何を意味するかは判断がつきかねるが、ちぐはぐさのようなものはあって、屋上というのはままならない場所なのだろうという印象は受ける。*3

以上、オチなどはありません。

*1:OPでも中心にいるのは銀子なので、彼女が主役という理解で問題無いのだろうとは思う

*2:ユリには男はいないが、クマにには男がいるわけだし

*3:当然、下にある百合の花壇との対比が存在するのだろうけど

近況とか

自分がブログを更新できない理由をぐだぐだと自己分析しても、さしてエンタメであるとは思えないので、とりあえず試行錯誤など。

さみしいひと (花とゆめCOMICS)

さみしいひと (花とゆめCOMICS)

斎藤けんの『さみしい人』を読んでいて、なんとなく『グリザイアの果実』に出てくるマキナの母親のことを思い出したりしていた。あの作品において彼女は割と全否定される人として登場する。彼女は親の金であらゆる挫折から無縁の人生を送ってきたが故に、他者への共感や想像力を欠く、歪な性格の持ち主として主人公からは看取されていて、掛け値なしにそういう行動を取る人なのだが、それは一概に責められたことなのだろうかとプレイしていた当時思ったりした記憶があったのだ。
もちろん、彼女は自分の意を通すために「暴力」を用いているので、その面ではフォローのしようがないし、そうであるが故により強大な「暴力」の所有者である主人公に負けることにもなる。しかし、社会的に合法とされる行為の範囲で、彼女のように振舞うことが有利である場面というのはいくらでも想定しうるし、であるならば彼女の人格そのものを一概に悪とすることは出来ないような気がするのだ。
『ブラインドサイト』という小説の中で、支配者階層に属する人の間では脳の一部が萎縮し、他者への共感能力が落ちる傾向があり、これはこれからの人類の進化の方向を示しているのかもしれないという話があるが、そういう観点からすれば彼女はただ単に現行の環境に適合しただけである。
『さみしい人』の中で、篠原諒の母親もまた「暴力」を振るおうとして、最終的には敗北する。ここで描かれている「暴力」は極めて観念的な趣がなくはないが、決定的なものとして現れていることも確かである。
そこがこの作品の消化不良なところな気はする。母と子供の紐帯をただ「言葉」だけで分かつことは絵空事に近いのかもしれない。だが、虚構の可能性とはまさに絵空事であることなのもまた確かである。

帰ってきたヒトラー

帰ってきたヒトラー 上

帰ってきたヒトラー 上

現代ドイツにヒトラーが蘇えったら、モノマネ芸人だと勘違いされて、あれよあれよという間にスターダムを駆け上がっていくというお話。
題材が題材ということもあって、作者の創意工夫は曲芸のレベルに達していると言っていいと思います。
この話のヒトラーって基本的に悪いことしないんですよ。作中で書かれてる限りの唯一の悪事は、オクトバーフェスで売名目的でからんできた芸能人にハーケンクロイツのサインをするくらいのもので、襲ってきたネオナチにも殴られるに任せて反撃すらしない。当然、ユダヤ人だって迫害しない。
だけど、もちろん善人ではないわけです。一人称の文の中では見事なくらいに語られませんが、彼は自分が現代においてどのように評価されているかを明らかに自覚していて、その上で己の信念を貫き通しながら現代における自身の地位を確実に固めていっている。その華麗な言葉の綱渡りの数々*1とそれに見事に勘違いする周囲の滑稽さは、間違いなく一読に値するレベルでしょう。*2
ですが個人的に一番感心したのはそこではなくて、ヒトラーのキャラクター造型だったりします。私が読んだ限り、この作中の彼は、まごうことなき狂人です。これの何が面白いかって、普通狂ってる人って人に嘘つかないというか、つけないものだと思うんですよ。だって、他人の意図を明瞭に汲み取って適切な言葉を選び取れる力は、その能力の所有者が正しく現実を認識して折り合いをつけていることを裏打ちするものであって、そういうことが出来る人は一般的には狂人とは呼ばれませんから。
実際、現代に蘇えったヒトラーの行動は基本的に極めて頭のいい詐欺師のソレでしかないわけです。周りの人間は見事なくらい騙されて、彼本人が得をしていく爽快感はあっても、そこには狂気が入り込む余地はありません。
では何がフューラーの狂気を読者に訴えかけてくるのかというと、彼がかつての自分の指示の正しさを1ミリも疑っていないということなんですね。
上巻の冒頭にかの有名な「ネロ指令」に対する総統本人のコメントがあるんですが、読者はこれを読むことによって、明らかに作中に出てくる彼が常軌を逸した人物なのだということが了解される仕組みになっています。
これは当然のことのようにも思えますが、この現代と過去の間に存在する連続性が彼の狂気を指し示すという「約束事」こそ、この作品の肝だと個人的には思っています。*3なぜなら、作中では現代のヒトラーの狂気を匂わす描写はところどころで現われますが、冒頭部と違い、その後の文章では過去のヒトラーの非人道的な行動の内容はほとんど描写されないからです。
要するに、文章の中にあるのは多少保守的な傾向はあるけど、頭の回転が速くウェットに富んだ部下思いの気のいいおじさんが周りの人間を手玉に取るってお話であって、気が狂ったヒトラーが快進撃を続けるお話は読んでいる読者の頭の中にしか存在しないんですね。
この二重化というか、アウトソージングを見事に成功させたところが、作者の最大の功績かなと思ったりした次第。良作。
twitterにかまけすぎて、自分の文章が気持ち悪いので、本格的にブロガーに復帰していきたい。

*1:ユダヤ人は冗談の種にはならない」

*2:個人的には、総統パソコン上で困っている同胞を助けるところが一番好きだけど

*3:作中では、現代の「総統」は総統ではありえないため、彼の表現は芸術的に保護されるべきだという真逆のロジックが登場するので、作者の自負ほどが感じられる

風立ちぬ

割と好きな映画ではあった。何か一つの主題にそって、感想を展開するのは、どうにも自分が受けた印象から離れるだけにしか思えないので、一番印象に残ったシーンをあげると、先輩が作った飛行機の試験飛行を見ているときの主人公の描写ということになる。
三菱に来てすぐに仕事を与えられたときの如く、このときの彼には螺子を限界まで巻かれたかのような活力が漲っているにも関わらず、総体としてそこに大きな動きはない。結果、彼はまるで引き絞られた弓のようですらある。肉体が、ということではない。ここで描かれいるのが終始、主人公の顔である以上、ここで表現されようしているのは彼の精神の状況であるはずだ。
私は、彼が起きながらに夢を見ているのだと解釈した。作品において幾度も示されるカプローニとの夢ではない、誰にも、観客にすら見ることが出来ない彼自身の夢をである。*1
無論、この読みは牽強付会が過ぎるのかもしれない。何せ、彼の「美しい夢」はカプローニとの夢の中に何度も登場するのだから。ただ、青年期に入ってなお、夢の中に現れる主人公の飛行機は、多くの部分が曖昧なものに過ぎない。彼がカプローニにそれを示せるようになるのは、彼が現実においてそれを作った後のことなのだ。*2
夢の中でみる夢は、あたかも近眼の人間が朝起きて最初に見る世界のように、どこかボンヤリとして焦点が合うことはない。もし、己の夢を実現しようと思うなら、彼は起きながらにして明晰な夢を見始めなくてはいけないのではないだろうか。たとえ、それがどんなに独善的で薄情なものだとしても。*3

*1:試作機は墜落したにも関わらず、道が開けた思いだと感想を述べるのは、そういうことなのだと思った

*2:そもそも彼が夢でカプローニに出会うのは、彼が現実でカプローニの存在を知った後なのだから

*3:作中、これと似たような描写がなされる箇所が何箇所かあって、大体が飛行機に関するものなのだけど、例外として黒川の家で嫁入りしてきた菜穂子を見たときがあって、その「美しさ」からメタ的な言説を取り出すのは容易いのだけど、この線にあまり安直に乗るのもまた違うような気はする。例えば、始めの頃に、主人公と母親が話し合う「夢」という言葉が、今見ていた夢、将来の夢、飛行機=美しい夢という三者の中を漂っているように、菜穂子にもまた夢があるわけだし

SOUL CATCHER(S)

七夕がこのブログの開始日なんだけど、書くネタが無いと零していたら『SOUL CATCHER(S)』の感想でも書いたらどうですかと勧められたので、書いてみんとす。

実はミスマッチものというか、主人公の能力からすれば本来の用途ではない使い方をさせられる話なのかなとは少し思っていたりはします。なんか音も可視化されるみたいなんで*1、音楽関係の仕事につくのも悪くないのかもしれませんが、心が見えるという能力を重点に置くなら、音楽という手段はやはり迂遠ですよね。
加えて、作品の中で目標とされているのは全国コンクールへの出場であり、一話目で描かれているように即興演奏向きの神峰くんの力が、一つの完成した音楽を集団で作り込んでいくという作業に対して、有用な力なのかは疑問が残るところです。
もちろん、実力的には十分なものがありながら今一歩全国には届かない吹奏楽部を、神峰という刺激で一皮向けさせるという話の筋は、各パートの不調和の解消という形で進められてはいます。ただ漫画的には、主人公としてカンフル剤以上の活躍が求められるわけですけど、各パートの意識統一以上のこととなると、心が見えるからといってどうにかなるという話でもない気がするんですね。
というより、これは完璧にジャンル的な話なんですけど、神峰くんの力ではおそらく存在するであろうコンクール的に完璧だけど人を微塵も感動させない音楽というものに、勝てないと思うんですよ。何故かと言えば、完璧な演奏には、それを可能にするだけの努力がどうしても透けてしまう性質のものだからです。
今日、努力じゃなくて覚醒だろ。と言われて久しいわけですが、例えば覚醒の確変状態が起きてる『黒子のバスケ』だって、舞台が過去であることが示しているように一種のアンチテーゼに過ぎません。やはり、努力は不在ではありうるかもしれないけど、努力そのものを否定することは少年誌ではなかなか難しいと見るのが無難でしょう。*2
まして、コンクールに優勝するために、ミス一つない完璧な演奏を作り上げるという努力自体は何も間違ってはいないわけです。おそらく、この努力を否定して、神峰くんの力が一番輝く即興性のある指揮のようなものを持ち上げることは出来ないと思うんですよね。
そこら辺を試合に負けて勝負に勝つ式にするのか、もう一段捻るのかが個人的には気になっているところです。前作の「あの人」を見るに、前者でも十分にいけるようには思うのですが、主人公の表現したいものに、知識が追いつかないという描写も散見するので、人を感動させることとコンクール向けの音楽の並列という線もあるのかな、とか。

ここまで書いて、およそ感想ではないという事実に耐え切れなくなったので〆。どうにも駄目なので、そのうちもう少しマシなものを書きます。たぶん。

*1:一定以上のレベルの演奏なら、ということなのかもしれないが判然とはしない

*2:「努力できないまま 努力できる連中に勝ちたい」ものですが

『LOVELY×CATION』の感想にかこつけた何か

LOVELY×CATION2 初回限定版

LOVELY×CATION2 初回限定版

言い訳も虚しいで、さっさと本題に入ります。

アベンドとかプレゼントによるルート分岐とかはまだ全部押さえてないのですが、とりあえずルートそのものは終えたので、感想なのか何なのか分からないものを。
一月開けずに1と2をプレイしたのですが、1をプレイしたときの驚きが、2でも継続しているかなというのが個人的な印象だったりはします。*1最初にプレイしたときに思ったのは、これは違う世界線のゲームなのではないかということでした。
もちろん、今までにも可愛いヒロインと付き合ってセックスすることに特化した作品という意味では『Sugar+Spice!』とか『こいびとどうしですることぜんぶ』とか『ラブラブル』とか、半分以上エロゲーマーから足を洗っている私でも簡単に数本はあげられる程度には存在していて、それ自体では珍しいものではないでしょう。
しかし、このゲームはそれらとは質的な違いがあるように思います。何が違うかといえば、時間の経過の処理がある部分で極めて非テキスト的なわけです。
非テキスト的では分かりにくいので具体例を出すと、ソフトハウスキャラの『ウィザーズクライマー』において、時間の経過というのはテキストの進行より先に、パラメーターの上昇と結びついています。この作品ではシュミレーションゲームとしての大きな枠組みの中で時間というものは処理され、テキストというものは要所要所でその処理を彩る二次的なものに過ぎません。『LOVELY×CATION』は日々の中でアイテムを手に入れてパラメーターを上げていく作品なので、ある意味ではこの系列に属しているわけです。
ですが、私が主にやっているシナリオ重視型のエロゲにおいて特に顕著なように、多くのエロゲにおいて時間の経過はテキストの進行と結び付けられてます。もちろん、カレンダーや背景CGの変更とかで、時間の経過というものは補強されているんですが、究極的にはテキストを進めないと時間が前に進まないという状況は、エロゲをプレイしたことがある方なら容易に想像がつくものなのではないでしょうか。
これはどちらが良いということではなくて、エロゲーの中にはそういう表現の幅がありうるという話です。製作者は「宇宙は広大だ」とテキストで書く代わりに、全1万マスからなる宇宙フィールドとターンごとに1マスしか移動できない宇宙船からなるミニゲームをプレイヤーにプレイさせてもいいわけです。*2
ただ、ここ数年の間、エロゲの主流はシナリオを重視した、テキスト表現へ寄ったものでした。私の守備範囲の狭さもあるんでしょうが、そこにひょっこり現われたように見えたのが『LOVELY×CATION』だったわけです。
いちよう断っておくと、別に私は『ときめきメモリアル』的なものがエロゲで復権したとか言いたいわけではないです。『LOVELY×CATION』のパラメーター要素というのは、その全てを選択肢に置換することが容易の想像できるレベルの、極めて形式的なものに過ぎません。*3ヒロインと付き合うだけなら、その尻を追いかけていれば、ほぼ間違いなくルートに入れる程度のものなわけです。
では、何でそんなものがあるかというと、おそらく時間の経過を水増しするためなんですね。このゲームにおいて作中における経過時間は一月弱なんですが、ルートに入ってからも、パラメーターが上がるだけでイベントが無い日とかあるんですよ*4これをそのままテキストで時間処理をするエロゲでやると、ちょっと厳しいということは想像にかたくないわけで、それを可能にするためのシステムとして、あのパラメーター周りというものはあるのだと私は思っています。
こう書くと、『LOVELY×CATION』が手を抜いているような感じになってしまうのですが、実際にプレイしたときの印象はその真逆でした。つまり、『LOVELY×CATION』が普通なのであって、他のテキストで時間を埋めようとした作品たちが偏執狂的だったのではないかという気すらしてくる。違う世界線というのは、そういう意味であって、エロゲというものの可能性を感じさせてくれる一品でした。*5


すっかり鈍って文章の閉じ方が分からなくなったので、ここら辺で〆。

*1:ラブミーコールなどの洗練はあっても、本質的な進歩などは存在していないということでもあるけど

*2:蒼天のセレナリア』のミニゲームクソゲーだとは思うが

*3:ゆるい『ペルソナ3』のコミュ攻略だと考えれば、ほぼ間違いない

*4:登校とか昼休みの会話とかは存在する

*5:それに私がついていけるのかは判然としないけど