『ガンナイトガール』の感想と何か

ガンナイトガール 通常版

ガンナイトガール 通常版

正直、キャンディソフトを舐めていたというか、『つよきす』の続編を未だに出し続けているとこ。みたいなネガティブなイメージがあったのですが、本作はその印象を完全に払拭するに足るものだったと思います。
隅々まで神経が行き届いていると評せるほどエッジではありませんが、かなり丁寧に作られている感触がして、久々にエロゲーマーとしての寿命が伸びるのを感じました。
特に風祭志乃のシナリオはこの1ルートだけで元が取れると思わせるほどの並々ならぬ一品でした。
これは勝手な見方ですが、現在的な「属性」を中心としたエロゲのキャラ演出において最も美的なイベントというのは、そこで起こった諸々がそのヒロインの本質を完全に表象するようなもののことだと思います。
そこではヒロインに付与された「属性」たちが有機的に絡まりあい正しい位置につくことによって、ヒロインがヒロインたる由縁が鮮やかに開示されることになります。言ってしまえば、その場面について説明することが、ヒロインの魅力を説明することと近似するようなイベントこそが、一つの理想としてあるわけです。*1
しかし、風祭志乃のシナリオで目指されたのはそういう方向性ではなかったように思います。もちろん、彼女に属性が無いというわけではなくて「ツンデレ」とか「動転すると方言が出る」とか「実はメンタルが弱い」とか色々あるんですが、こういった要素は劇的に示されるというよりは、個別ルートに入ってからずっと主人公の前に現れ続けるんですね。
つまり、風祭志乃は「ツンデレ」で「動転すると方言が出る」「実はメンタルが弱い」キャラとして主人公に認知され、「ツンデレ」で「動転すると方言が出る」「実はメンタルが弱い」キャラとして主人公の前で振る舞い、「ツンデレ」で「動転すると方言が出る」「実はメンタルが弱い」キャラとして主人公と共にある決断を下すわけです。
それを可能にするためにライターは、執拗に思えるほど細部が異なる似たようなイベントを重ねていくという手法を取っていて、2012年にこういうこと出来るだなと本当に感心させられました。*2
あとヒロインの5分の4にヤンデレの気があるので、そういうの好きな方にお勧めです。

主人公と幼馴染たちとの掛け合いは愉快だし、ヒロインはそれぞれにキャラが立ち、シナリオも現在のストーリー重視型のエロゲの水準は間違いなく超えていて、プレイした後に十二分な満足感が得られる作品なので*3、気がむいたらやってみてはいかがでしょうか。

*1:もちろん、実際的にはイベントはシナリオの一部分に過ぎない以上、それは何処までも理想に過ぎないのだが

*2:こう書くと不動の一点を中心した数多の楕円運動みたいに思えるかもしれないが、どちらかというと形の似た螺旋を描きながら徐々に移動していくイメージに近い。最初のお志乃ちゃんの属性の重心は「ツンデレ」だけど、最後の彼女の重心は「実はメンタルが弱い」なので

*3:最初の画面の意味が分かるところとか良いですよね

フライト

見たら、なかなか良かったのでネタバレ全開で感想など。
内容を知らない人のためにストーリーを要約すると、主人公が操縦している旅客機に致命的な故障が発生し、あわや墜落かと思いきや、彼のとっさの機転で不時着に成功。主人公は多くの乗客の命を救った「英雄」になるのですが、実はこの人、アルコール依存症で奇跡の操縦時も酒と薬をキメており。というお話です。
CMなどを見てると、割と法廷劇風というか個人の良心と社会的な諸事情の間で登場人物たちが揺れ動くみたいな話に見えるのですが、実際には全く違って主題は主人公の「回心」です。
それが透けてみえた時点で、物語が何処に行き着くのかはある程度まで察せられてしまうのですが、そんな推測をねじ伏せてしまうようなデンゼル・ワシントン演じる主人公ウィトカーの人間のカスっぷりが最高でした。
別にこの人、良心が無いわけではないんですよ。だけど、ひたすら自分に甘い。
航空事故から生還した後、すっかり反省して二度と酒は飲まないみたいな素振りを見せるんですが、結局のところまた飲み始め、そこからはとんとん拍子で、多少行ったり来たりはするものの、基本的にずっと酒浸り。
乗り物の事故で刑事訴追されるかどうかの瀬戸際をずっと漂っているのに、車を運転している最中も何のためらいもなく酒を飲み続けた上、彼のアルコール依存を心配した新しい彼女に対して「俺は自分で酒を飲むことを選んだ*1」と啖呵を切って破局します。
そして最終的に、主人公の味方をしてくれていた全ての人の期待を裏切って、彼の運命を決める公聴会の前日に、ホテルの部屋にあったあらんかぎりの酒を痛飲し、二日酔いの状態でその日を迎えることになるわけです。
この時点でカスっぷりがかなりのレベルに達しているんですが、主人公はここで二日酔いを隠して公聴会に出席するため、当たり前のようにコカインを吸引して、色々な意味で更なる高みへと登ります。ハイになって颯爽とドアを開け自信満々に歩いていくウィトカーさん。その姿は、あの事故の日、飛行機に乗る前に酒と薬をキメていた彼と瓜二つなのでした。そう、彼のフライトはまだ始まったばかり──
個人的にはそんな感じの映画でした。彼が最終的にどうなるのかは映画を見てのお楽しみということで*2

*1:この台詞はあまりに典型的過ぎるとは思うが

*2:期待されても責任は負えないけど

近頃読んだものを適当に

謹賀新年。
一本目の感想を書きたかっただけなんですが、字数がさみしいので三本ほど。

  • 『チマちゃんの和箪笥』

チマちゃんの和箪笥 (マーガレットコミックス)

チマちゃんの和箪笥 (マーガレットコミックス)

この三ヶ月読んだ中で、一番印象に残っている漫画はコレなんですが、果たしてこの漫画面白いのかどうか、いまいち自分でも自信を持てなかったりします。
この作品には感想を言おうとした人間の口を重くさせる類の自律性みたいなものがあって、私はそれを良しとしました。ただ、その自律性を支えている「きもの」と「少女漫画」という二つの要素から紡がれた作品世界は、どうしようもなく狭いものであることはまた事実です。
それを象徴するのが漫画の導入部の最後の方に置かれた主人公の

大学卒業後
私は一年間染色を学び
二年かけて世界中の
織り物の産地を訪ね歩き
一年間会社で働き……

ふとしたけっかけで
小さな店を持つことに
なるのです

というモノローグかと思います。私自身これを読んだとき、精神的な落差のようなものを感じずにはいられなかったのですが、これを受け入れることが出来る人間が読めば、この作品は間違いなく傑作です。
「きもの」が喚起するイメージと「少女漫画」が積み上げてきた規範がおりなす綾に、はっとするほど上品でありながら同時に哂うしかないほど現実離れした世界に、もし興味があれば読んでみるのも一興かとは思います。

三国志ジョーカー 1 (ボニータコミックス)

三国志ジョーカー 1 (ボニータコミックス)

実は孔明は未来人だったのです。という漫画。そして、この短いフレーズによって普通想像される内容の半分以上を裏切ってくる漫画。一巻では「私が従うのは神の言葉だけです」と「私は無神論者ですよ。強いて言うなら、私がいう神というのは私自身のことです」のコンボを決め、ラスボス感満載だった孔明さんが、最終巻では粗末な服を着て火炎瓶製作に勤しむところまで落ちぶれるのを楽しむのも可。

  • 『愛しの可愛い子ちゃん』

愛しの可愛い子ちゃん 1 (りぼんマスコットコミックス クッキー)

愛しの可愛い子ちゃん 1 (りぼんマスコットコミックス クッキー)

女子高で「王子様」の役を振り当てられていた女の子に彼氏が出来て、「王子様」だった彼女も、彼女を取り巻いていた他の子たちも、変わらずにはいられなくて、というようなお話。おそらく、男性向けの雑誌でも似たような話は書けるだろうし、実際のところ一巻のストーリーだけを見れば目新しいものはないのですが、「百合」と称されるようなジャンルから、少しだけ自由であることがミソなのかなとは思います。そして同時に「少女漫画」からも少しだけ自由である。そして、潮ちゃんは可愛い。

月曜日の空飛ぶオレンジ

月曜日の空飛ぶオレンジ。 (1) (まんがタイムKRコミックス)

月曜日の空飛ぶオレンジ。 (1) (まんがタイムKRコミックス)

面白かったから、読んでくださいね。ぐらいで済む話で、わざわざこの漫画について何か書くのは蛇足のようなものなんですが、作品の力を借りないことには今年中に更新することすらままならない感じだったので悪しからず。
私はあまり萌え四コマというジャンルを嗜まないので、もしかしたら界隈では常識に入る技巧なのかもしれませんが、この作品を読んで驚いたのは、萌え四コマの「グリッド」*1に対する強い意識だったりしました。
四コマ漫画というのはその名が示す通り、四コマの内部で漫画を展開するのが基本形で、「グリッド」は一種の無であると考えるのが普通です。もちろん、応用系はいくらでもあり、多くの四コマ漫画は軽々とコマを飛び越え、「グリッド」という無を異なるルールで塗りつぶしてもきました。
ですが、『月曜日の空飛ぶオレンジ』はそのような基本形や応用系には与していません。おそらく、ここで目指されている方向性というのは、無であるはずの「グリッド」を別のものに転換することなのではないでしょうか。そして、そのために作者が用いている戦略が三つあります。
一つ目はコマとコマとの非連続性です。
この漫画を読んでまず驚くのは、はたして連続していると言えるのだろうかと思うほどの突飛な展開であるということは衆目の一致するところでしょう。むろん、それは不条理ギャグなわけで、コマとコマとの間の落差が激しいほどギャグは冴え渡ることになるわけですが、中には「何か色々バグってますよ」という作中の台詞を好んで感想に選ばせてしまう類の、ちょっと度を越したものがあるのも事実です。これを作者のコントロールミスと考えることも可能ですが、その傾向が作品全体に行き渡っている以上、これは意図された非連続性なのだと考える方が妥当でしょう。
では何故に、コマとコマとの非連続性が希求されるのか。思うにこれは、本来であれば黒子のようにコマ同士の連続性を担保している「グリッド」を、読者の目の前に再提示するためではないでしょうか。本来であれば連続しないはずのコマ同士であるからこそ、仮初にもそれらを一つの連続体に仕立て上げる「グリッド」に注目が集まる。そのとき、もはや「グリッド」は単なる無であることを放棄せざるえないというわけです。
二つ目に「グリッド」とフキダシとの間に生じるコントラストです。
この漫画は単行本で読むと一目瞭然なのですが、先頭に載ってる回と最後尾に載ってる回では、漫画が依拠している表現の法則がかなり異なっています。*2その最たるものがフキダシの扱いで、一回目ではコマの中にきっちり納まっていたフキダシが、三回目からこれでもかとコマの外に飛び出してくる。*3このとき、フキダシは場合によっては「グリッド」塗りつぶして、コマとコマをつなげたりします。このフキダシによるコマとコマの接続において、基本的に意味されているのは会話の連続性です。二コマ目で放たれた言葉を、三コマで受けるとき、フキダシはコマという制限を越えて二つのコマの連続性を示している。そして、このようにフキダシが機能し始めるとき、その反射として「グリッド」の機能もまた再検討されざるえない。フキダシが会話の連続性を意味するなら、「グリッド」はどうような連続性を意味しているのか。時間なのか、空間なのか、それとも他の何かなのか。このように考え始めたとき、私達はすでに作者の術中にはまっていると言えるでしょう。
三つ目は「グリッド」そのものを物語の要素に組み込んでしまうということです。
これは端的に言ってしまうなら、単行本の後半においてナナミが訪れる謎の空間が「グリッド」なのだ。ということです。何故そう思うのかと聞かれれば、あのどこまでも同じ規格で広がっていく本棚が、どう見ても「グリッド」を意味しているようにしか見えない。などという印象論が主にはなります。ただ、一つだけそのように解釈しないことには、意味が全く不明になってしまう四コマというのが存在しているので、この方向性はそこまで間違ってはいないのだろうとは思っています。
それは96Pの2つ目で、この四コマはストーリー的には何の意味もありません。気がついたら、謎の空間から立方体の空間の中に移動していたことを確認するだけに四コマを費やし、次の冒頭では夢オチとして処理されてしまう。仮にこの四コマ分が削られていても、前後は何の違和感もなくつながってしまうことはほぼ間違いない。だから、この四コマというのはある種の雰囲気作りというか、遊びみたいなものだと考えることも出来る。
ただ、あの謎の空間が「グリッド」を意味しているのだ。と考えるとき、この四コマの意味は凄まじく明瞭です。つまり、描かれているのは「グリッド」の世界から四角いコマの世界に戻っていくというシークエンスに他ならない。*4であるなら、50年というタイムスリップや謎の物質の出現はそのようなものであると考えることが出来る。本来であれば非連続的なものをつなげる権能。そういったものに意識をやるとき、私達は少しずつ「グリッド」を無視することが出来ない場所へと追い込まれていく。


などと長々と書いてみたのですがオチはありません。しばらくブログから離れていたせいか、文章能力全般の劣化が酷いし、当たり前のことを当たり前に書いたに過ぎないしで、反省することしきりです。わざわざ三つに分ける云々するより、連載の流れに従って表現が拡張されていくのを追っかけていくスタイルがベターだったのかなという気はしているのですが、それをやる為には作品そのものの引用が大量に必要になりそうなので、こういう形になりました。
自分で書いといて何なのですが、本当の意味では戦略は三つというよりは一つなのだろうと思います。ただ、「グリッド」がまさに目の前で機能していない状況においては、そのような分化に頼らざるえなかったというか、私の四コマを語る語彙の貧しさが不必要な分断を必要にしたのだというお話ですね。駄文でした。
次はもうちょっと慣れたフィールドに立ち戻ろうかとは思います。

*1:要は四コマの間に存在する格子状の空白のことだが、格子状の空白だと何か間抜けだし、ちょっとシステム的なよそよそしさを出したかったので、あえてこの語にした。むろん、根本的にはカッコつけただけの話ではある。

*2:拡張されているという方が正しいような気はする

*3:正確には二回目の冒頭で一度飛び出すのだが、残りは全て枠内で収まっているので三回目からということにした

*4:この回からキャラクターがコマの外に飛び出るようになるのだが、あえて、この回からである理由を探すなら、96P二つ目三コマ目との対比だろう

トガニ 幼き瞳の告発

何とか滑りこみで見たので、思ったことなどを。
おそらく、この映画はかなり「正解」に近い。何の「正解」かと言うと、見ている人間の口いっぱいにクソを詰め込むという手法のである。
こいつ何を突然言い出したんだ。と思う人が大半だろうが、ある一定の期間以上、フィクションと親しんだ人間は大なり小なり、フィクションを介して口にクソを詰め込まれることにある種の喜びを覚えるようになるものだと個人的には思っているという話である。
クソというのは要するに「現実はそんな甘いもんじゃない」という類の言説をフィクションの内部で肯定してくれる何かのことで、フィクションが虚構であるように「現実」もイマジナリーな尺度に過ぎないのだから、基本的に不毛なものには違いない。だが、フィクションの軽やかさみたいなものに不審を覚える年頃になると、そういうのを求めて作品を地面に叩きつけてみたくなるものだし、軽やかさを全肯定できた頃に戻るというのも中々難しい話である。で、気の利いたクリエイターか何かになると、そういうニーズに合わせて、予め用意したクソをこちらの口に放り込んでくれたりするわけだ。
そういうのの完成形として『トガニ』はあるように感じた。
映画を見た後に、口の中のクソをどうするか?
隣の国の人たちは、ちゃんと吐き出してみせましたよ。とかそういうお話。


要領を得なかった。今は反省している

『平グモちゃん−戦国下剋上物語−』

平グモちゃん-戦国下克上物語-通常版

平グモちゃん-戦国下克上物語-通常版

生存報告をかねて、ライアーの新作の感想などを淡々と。
割と古くからライアーのゲームをやってる人が喜びそうな作品だったかなとは思います。
システム的には、ちょっと煩雑な分岐のあるADVくらいの感じで、主人公である松永久秀の人生すごろくを読んでいく作品になっています。兄貴分が「道さん」こと斉藤道三だったり、戦場でクリスマスを祝ってみたり、最後には天守閣で自爆したりと、松永久秀の逸話を知っているとニタりと出来るようになっているので、前知識が無いならwikipedeiaくらい読んどくと楽しさが増すのではないでしょうか。
けっこう分岐の数は多くて、長宗我部幕府が誕生するみたいな意外な展開とかもあったりするんですが、歴史ifものとしては全体的に描写が薄いので、物足りないかなという気はします。あと、松永久秀を主人公にした時点で仕方がないことなんですが、後半にいけば後半にいくほど落ち目度が増していってテンションはあまり上がりません。*1後半のあたりのイベントを埋めていく作業感と、主人公のままならなさがリンクして、何ともいえぬ世知辛さを漂わせたりはするのですが。*2
そんな中で、このゲームのおすすめポイントを挙げるなら、良くいえば癖が強く、悪くいえば性格が酷い、ヒロインたちということになるでしょう。
一番まともな人でも、己の姉の伴侶である主人公と逃避行のうち、良心の呵責もなく幸せに暮らしたりしますし、他の人たちも、人間を「官位」でしか見てなかったり、「宗教」のためなら暗殺を躊躇わなかったり、頭の中「金銭」で一杯だったりと、愉快な精神構造をしている人ばかりです。もちろん、ルートによっては多少はデレたりもするのですが、基本の軸は決してブレたりしません。そこら辺、作り手のこだわりを感じたりはしました。*3
楽しいちゃ、楽しい。どこまでもライアーであり、ライアーでしかない。そんなゲームでした。あと、ノブリンは可愛らしゅうございました。

*1:もちろん、一発逆転の下克上はあるけど、その時点でEDに突入しちゃうし。

*2:分岐をいじってたら、今まで袖にしてきたヒロインたちが全員、信長に囲われてるイベントを見せられたときとか、もうね。

*3:とはいえ、そこから一歩踏み込むのかと言えば、そんなこともなく、人間として味があるのではなく、一風変わったヒロインがいるゲームで止まっているのだけど。

恋愛ゲームシナリオライタ論集 30人30説+

公開してもかまわないということなので、とりあえず、こっちだけ公開しておく。ちょっと読み返したら語尾が神経質過ぎてアレだったので、それだけでも直そうかと思ったのだが、序文の時点で飽きたので基本的に印刷されたものと同じである。もう一つの方は、あとがきの予告を現在進行形ですっぽかしていることもあるし、少し言い訳でも付して公開する予定。

1.序文
この高尾登山星空めてお論を書くにあたって、最初に断っておかなければならないのは、わたしが遊演体*1に対する知識をほとんど持たないということだ。周知のようにライアーソフトのメンバーの多くはかつて遊演体に所属しており、登山とめておの両氏もまたその例に漏れない。おそらくライアーソフトの作品に見られる様々な特徴は、遊演体という出自を無視しては語ることが出来ない事柄である。そのため、わたしはこれから展開していく文章の中で遊演体という背景について少し言及するが、それらは全て私の仮説に過ぎない。ここで書かれた文章が正確な知識によって反駁されることを、筆者自身が何よりも待ち望んでいる。
2.二つの枠
高尾登山星空めてお論というテーマを書くにあたり、わたしは大きく二つの枠を用いることにした。一つは「前期ライアー(高尾登山)論」、もう一つが「作品(星空めてお)論」である。その理由は簡単に言ってしまえば、高尾登山星空めておを区分することの不可能性にある。例えば『ぶるまー2000』において、どこまでがめておの担当で、どこからが登山の担当であるかを判別することはわたしには出来ない。そこで、二人が関わった作品を年代順に並べて考えていくことによって、ライアーソフトの特徴を「前期ライアー論」として描き出し、そこに収まらない過剰さを「作品論」として処理する方式を取ることにした。前者が高尾登山論であるのは、彼が『CANNON BALL』までライアーソフトの代表を務めていたからであり、後者が星空めてお論であるのはわたしの信仰によるところが大きい。
また前期/後期という区分は必ずしも適当ではないが、現在ではかつてのバグの多さが冗談で語られるように、ライアーソフトはその体制からして大きな変化が生じたメーカーである。そこには論じるに足るような変化が潜んでいるとわたしは信じる。その変化の標識として、前期という言葉を用いた。*2
3.高尾登山
ライアーソフトのデビュー作であり高尾登山がシナリオを担当した『ちょ〜イタ』は、後のライアーの展開を指し示すようにギャグを主体としたゲームになっている。事故によって超能力に目覚めた主人公とメインヒロインとのデートの一日を描いたこの作品最大の特徴は、ほとんど全ての場面*3で行える「透視」システムだ。右上にある透視ボタンを押すと画面内に小さな円が出現し、その円の中ではCGを透視して登場人物の服の下などをのぞき見ることが可能になる。更に言うなら、この「透視」を特定の場面で行なうことが一部の選択肢を出現させるトリガーにもなっている。街中を行くサラリーマンの下着姿も見れる馬鹿馬鹿しさもさることながら、ただの一枚絵のように考えられることが多いCGをより積極的に作品内に取り込んでいく演出の方向性は、後にまで続くライアーソフトの特徴の一つだと言えるだろう。
3作目にして星空めてお初企画の『ぶるまー2000』も、前作までと同じく馬鹿馬鹿しさを追及した作品である。ひょんなことから神のぶるまーを履くことになった主人公の常葉愛が、十ケツ衆を擁する悪の秘密結社BB団の野望を阻止するため戦うというストーリーは、背景に壮大な設定を抱えながらも決してシリアスに振り切れることはない。また常葉愛は女性であり、ここからライアー女主人公の系譜は始まってゆく。このゲームでは物語は特撮TVシナリオに模されており、30分に満たない計26個のエピソードから、プレイヤーは一定の制限を受けつつ8個を選ぶという珍しいシステムが採用されている。
4.守
わたしがここで指摘したいのは、両方のシナリオにおけるギャグ重視以外の共通点だ。それはヒロインとEDのつながりの薄さである。例えば『ちょ〜イタ』では主人公が悪の道へと進むEDや、ヒロインとの未来における破局といった一風変わったEDが存在し、ヒロイン2人に対してED数は8つも存在している。この特徴は2作目の『行殺・新撰組』にも通じるものだ。*4
『ぶるまー2000』でもトゥルーエンドじみたEDのすぐ横に、ブルマー道を極めるEDとか、アフリカに旅立つEDといった、明らかに蛇足めいたEDが設置されている。またシナリオにおいてヒロインの物語を絶対視しないからこそ、逆説的だが女主人公という発想も可能になるのだ。
これらのEDの特徴は何を意味するだろうか。わたしが思うに、それはライアーソフトの創作上の思想を示している。ライアーの作品においては、ヒロインは物語を彩る要素に過ぎない。物語はヒロインより上位の存在なのだ。名付けるなら、この考えは「物語中心主義」である。言うまでもなく、これは美少女ゲームにおいて一般的なヒロインとEDを不可分に結びつける「ヒロイン中心主義」とは正反対の考え方だ。そして、ここから前期ライアーソフトの作品群は、「物語中心主義」を保ちながら時代の潮流である「ヒロイン中心主義」をいかに取り込んでいくかという問題意識の中で展開されていくことになる。
5.破
4作目にあたる『サフィズムの舷窓』において、問題の処理は分離という形で遂行されている。船舶内で起きたレイプ事件を主人公が捜査していくADV型ゲームであるこの作品において、3人いるメインヒロインへのルート分岐は、最初の選択肢によって決定してしまう。その上で本筋とは別に、ゲームの進行状況によって開放されていくフレーバーという名のエピソード集などによって、6人の「子猫ちゃん」やサブキャラたちによる多くの物語を提供する方式がとられている。*5これによってメインヒロイン制と物語としての多様性の両方が保たれるのだが、その代価として作品としての統一性が崩壊してしまう。これがライアーにとって不本意なものであったことは、後続の作品において別のアプローチが加えられていることからも明らかだろう。
サフィズムの後、ライアーにおける問題の解法は2つに分けられる。それは言ってしまえば、一本道戦略と細分化戦略である。あえて分けるなら、前者を主に担当したのは星空めておであり、後者を担当したのが高尾登山となるが、『腐り姫』や『Forest』には登山も参加しており、ライアー全体として2つアプローチを試みたと考える方が無難であると思う。
『ラブ・ネゴシエイター』は登山が企画した作品だが、 ここで行なわれたのはヒロインルートのフラグメント化である。簡単に説明すれば、このゲームは全ルートほぼ共通の五章からなる物語と、その章の間に挿入されるヒロインのエピソードという構成をもっている。ヒロインのエピソードは1話完結型であるため、各章ではHシーン付きのサブヒロインを絡ませた自由度の高い物語が展開していく。また作品を通して強調されているのは、登場人物たちの二面性である。これは物語の厚みと連続性を増すための処置であると共に、登山の作品において見られる善悪の移ろいやすさというモチーフとも関係している。作中に出てくる悪徳政治家をめぐる悲喜こもごもは、『ちょ〜イタ』における悪の華EDや、『サフィズムの舷窓』におけるアルマシナリオ*6などと共通点を見出すことも可能だろう。
しかし、物語の大筋をサブヒロインのストーリーが担当し、メインヒロインの物語をフラグメント化させるこの方式は、物語の流れがぶつ切りになるという弱点を完璧には克服できていない。その解決策も萌芽的にこの作品には内包されてはいるが、それが本当に実を結ぶのは登山の企画した次の作品を待たなければならない。
腐り姫』は逆に、一人のメインヒロインのシナリオに他のヒロインたちのEDを包括させることによって成立した作品である。個々のヒロインたちに結末を提供しながら、その結末自体を物語の要素へと転じさせることによって、「ヒロイン」と「物語」が調和している。
もちろん、それを可能にするには複雑な物語構成が不可欠であり、 企画の星空めておの名を世に知らしめた作品であることは言うまでもないが、同時にここで行なわれいるフラグ管理は、現在まで続くライアーソフトの作品の中でも屈指の複雑さを誇り、作品の印象を深く刻み付ける。背景の中に潜みプレイヤーを惑わせる樹里の幻影もまた、ライアーがそれまでに積み上げてきたノウハウ無くしては不可能だったはずだ。次の作品と並んで、ライアーソフトが積み上げてきたものが結晶した1本だと言って問題ないだろう。
そして、『腐り姫』と同じ年に出た前期ライアーのもう一つの白眉こそ『ピンク・パンツァー』である。調教ゲームの要素を持ったこの馬鹿ゲーは、今回取り上げた作品の中で、一番ヒロイン中心主義の美少女ゲームに近い作品でもある。ヒロインの同時攻略こそ可能なものの、ライアーのギャグ中心の作品において、女主人公の場合を例外としてヒロインたちがこれほど重視されたのはこの作品が初めてだろう。
この作品で「物語」と「ヒロイン」を調和させたのはヒロインを調教するゲームパートである。ゲームパートは関東から北海道までの戦車演習の一年間において、ヒロインたちのパラメーターを上げることでイベントを発生させるというものだ。イベントは旅の中でヒロインのものに限らず色々と発生するので、イベントという側面かれ見ればヒロインたちのエピソードもフラグメント化されたイベントの中の一つに過ぎない。しかしながら、ゲームパートにおいてヒロインたちに意識を向け続けることが要請されるため、プレイヤー内部ではヒロインの物語は連続性を保っている。
調教ゲーという性質上、登山における二面性への拘りが、ヒロインの内面へと集中しているため、この作品では主人公によるヒロインのトラウマの解放といったようなストーリーが展開されていく。その上で、トゥルーエンドで主人公の屈折を解放していく展開など、箇条書きすれば普通の美少女ゲームと遜色が無い。*7『ピンク・パンツァー』において「物語」の自由度と「ヒロイン」の連続性の両立は、才能ではなくゲームシステムによって達成されている。ここにおいてライアーは一つの到達を迎えたと言ってもいいのではないか。
6.離
どれほど魅力的な問題も答えを出してしまえば、人を惹き付けておくことは出来ない。次に出た『CANNON BALL』で意図されたのは、新しい何かというより、サフィズムで分離せざるえなかった本編とフラグメントとの統一だった。その意図がどう帰結したかは周知の通りであるが、ここで一つ考えておきたいのは目指された『CANNON BALL』とはどうようなゲームであったかということだ。
それは要約してしまえば、全体を貫く大きな物語の下位クラスとしてゲームパートとサブヒロインのエピソードが存在し、それらが調和しているような作品だっただろう。つまり、アリスソフトが出すような超大作である。その解答はたしかに答えの一つではあるが、そこには限られたリソースの中で解を出そうとした『腐り姫』や『ピンク・パンツァー』のような創意が失われている。ここから高尾登山が代表を辞し、より堅実な体制が志向されたこともあり、ライアーの作品は少しづつ別の方向に舵を切っていくことになる。
『Forest』においても、そういう意味での革新性は存在していない。一本道戦略の追求という意味においては『腐り姫』と肩を並べるかもしれないが、ここではアマモリを除くヒロインたちに固有のEDが用意されていないからだ。*8それにも増して『SEVEN BRIDGE』は一本道の作品であり、その一本道性そのものが物語内に組み込まれているという点で興味深くはあるが、ゲームとしての完成度を度外視したとしても、ここにはかつて見られたような挑戦はない。
別にわたしは「前期」のライアーが良く、「後期」のライアーが悪いというような主張をするつもりはない。ただ「変化」はあった。それ自体は記憶に留めておいても良いはずだ。この論で書きたかったのは、結局のところ、それだけなのかもしれない。
7.星空めてお
わたしはここより、別の観点からライアーの作品を検証していく。それは物語とゲームの<はざま>という視点である。これはゲーム性を積極的に導入していくライアーの作品群においては大なり小なり見受けられるものだ。しかし、誤解を恐れずに書くなら、それが不可分なまでに作品内で結実しているのは『腐り姫』と『Forest』だけであり、『CANNON BALL』にその片鱗がのぞくだけである。その不可分なまでの結合の正体を描き出すことが、この論の主な目的である。
星空めておの企画した作品には共通する特徴が存在している。それはEDにおける物語の舞台の消失である。『CANNON BALL』のレースの終わりや『Forest』の新宿からの開放のように、星空めておの作品ではラストで物語を可能にする舞台が消え去ってしまう。
シナリオライターをする前、星空めてお遊演体ゲームマスターをやっていたことで知られている。TRPGにおいて物語の舞台は、ゲームマスターに語られるだけで発生するものではない。それは物語を受けるプレイヤーの存在によって初めて存在可能な<場>のようなものだ。
おそらく、めておの作品群において美少女ゲームとはそのような<場>を発生させる装置である。それは物語とゲームのはざまで、プレイヤーを魅了する幻にも似た <何か>だ。
前述の登山論がライアーの作品の広がりに注目したとするなら、この各論はライアーの深さについて述べるものだと言えるだろう。
8.<記憶>
腐り姫』という作品は、記憶喪失の主人公が繰り返される四日間の中で、失った記憶を取り戻していくというループゲーだ。この作品の特異性は様々にあるが、最も印象に残るのは何の説明もなく画面の中に出てくる樹里の幻影という演出である。主人公である五樹の目に映る幻を表現したその立ち絵は、どうしようもなくプレイヤーと五樹の同一化を妨げてくる。
「記憶喪失」というガジェットは往々にして主人公とプレイヤーの距離感を縮めるために存在しているが、『腐り姫』においてはその様な機能は意図されていない。わたしが思うにこの作品が志向したのは、物語とゲームのはざまが生み出す<記憶>に像を結ばせることなのだ。STGを繰り返す内にプレイが上手くなっていくのにも似て、『腐り姫』ではループを繰り返すごとにプレイヤーに<記憶>は蓄積されていく。それはゲームを媒介にしてしか存在を証明出来ないが、自分の中に宿っている何かである。
この物語のラストについては賛否があるだろう。しかし、たとえ物語がSFに飛躍しなかったとしても、五樹の思い出す記憶は絶対にプレイヤーの<記憶>とピッタリ重なるものではなかったはずだ。何故ならば<記憶>とは、物語を色取りながらも決して物語に回収されない余剰のことだからである。
星空めておは読本の中でこう記している。

樹里という「記憶」*9を呼び起こし、受け入れさせることが『腐り姫』のテーマであり犯行である。*10


わたしもまたこの犯行の生きた証人である。

9.<無限>
『CANNON BALL』で意図されたものが何であったのかを指摘するのは容易い。それは作中において不完全ながらも実を結んでいるからだ。宇宙規模のキャノンボールという壮大な舞台設定を持つこの作品は、主人公が宇宙船に乗ってレースを行なうというゲームパートを備えている。レースの結果などはほとんどストーリーに関係してこないのだが、それでもここで目指されたのがゲームパートとADVパートが密接に絡み合った作品であったことはまず間違いない。
順位やレース中の会話、それに呼応するようなフラグと二十人を軽く超える登場人物たち、これらから生み出されるのは<無限>にも思える物語の組み合わせである。理論上は有限でも、あたかも全てのシナリオを読むことが出来ないかのように思わせる作品。『CANNON BALL』が目指したのは読み尽くせぬ物語であったのだ。
その目標はあまりプレイヤーには受け入れられなかったように思う。わたし自身、ゲームパートにおける主人公と登場人物の会話を読んだのは作品ではなく、ネット上にある動画を通してだった。それはこの物語が退屈だからではない。むしろ物語単体で見た場合、これに匹敵する面白さを持った作品は美少女ゲームにおいて、名作にカテゴリーされるようなものに限られるだろう。
にも関わらず、この作品には隅の隅までプレイしようという意欲を沸かせないところがある。それはゲームパートが単に退屈であるということだけを原因にするものではない。たぶん、この作品には信頼が置けないのだ。*11物語とゲームのはざまは、作品とプレイヤーとの信頼関係なくしては成立しない領域である。わたしが『CANNON BALL』に見たのは<無限>の残滓に過ぎない。
10.<音>

ねえ おはなしを聞かせて


開始早々に響き渡る声<音>。異界と化した新宿を舞台にした『Forest』という作品を象徴するのは、この<音>である。
黒のアリスの呼びかけはどこに向かって響いているのだろうか。主人公であるアケルへか。それとも、プレイヤーへ向けてだろうか。その答えを確定することは出来ない。物語内においてアケルがその声に応えるのと同じくして、プレイヤーもまたクリックによって アリスの注文に応えているからだ。
はたして<音>はどこに響いているのか。ときにテキストの戒めを破り、背景の調べをわたしたちの耳に届けるその<音>は、まさに物語とゲームの<はざま>そのものである。これが強引な解釈でないことは、ティンクの鈴を思い出してもらえば分かってもらえるだろう。正しい選択肢*12を選ぶと鳴り響く鈴の<音>は、明らかにわたしたちにも向けられている。
これは言うまでもなくメタ的な演出である。だが、ここで問題にされているのは超越的な存在としてのプレイヤーといった安易なものではない。それはこの作品において最もメタ的である「ザ・ゲーム」の章が示している。
「ザ・ゲーム」では選択肢の選び方によって、登場人物の一人であるナガツキからプレイヤーを嘲る台詞を引き出すことが出来る。

やっぱり、あたしのカラダが目当てか。エロガキだな、こいつ……。

だがこれを「現実に帰れ」という類のプレイヤー批判として受け取るのは間違っている。何故ならば「ザ・ゲーム」という章そのものがプレイヤーに何度もプレイを繰り返すことを前提にしたような章だからである。
ボードゲームTRPGを混ぜ合わせたような様相を見せるこの章は、『Forest』というゲームに参加するプレイヤーの存在を認めている。ここでナガツキが問題にしているのは、どこまでもプレイヤーの欲望だ。飽きることなく幾度なく物語をやり直し、そして進めていく原動力。物語とゲームプレイヤーを媒介する欲望こそが、ナガツキの目に映りこんだものの正体である。
こうは考えられないだろうか。ナガツキが上がったのではなく、プレイヤーが気づかぬ間に下がってきたのだと。あのご都合主義のED。彼らはみな新宿から離れ、全ての物語の輪は閉じる。画に描いたようなハッピーエンドは、本当に主人公の努力だけで実ったものなのだろうか。
答えは否だ。わたしたちはそこに自らの欲望を投じた。一週目の結末を否定し、二週目を求めるために試行錯誤を繰り返したのだ。

「ねえ おはなしを聞かせて」

再び響き渡る<音>はわたしたちを捕えて離さない。二度の呼びかけのどちらかはわたしたちに向けられている。あの幸せな結末の後ろ側、<音>の鳴り響く深遠で、わたしたちの欲望は森に喰われたのだ。さあ現実に戻ろう、他に手はないのだから。
11.結び
章題に逆らって綻びの話から始めよう。高尾登山論と星空めてお論において『Forest』の評価が明らかに食い違っている。これはこの作品の主題がずばり「物語」であることの起因していると言っていい。登山論において記した「物語中心主義」という単語は、今よく見かけるプレイヤーに黙々と物語を読ませるタイプの美少女ゲームを指した単語ではない。むしろ、わたしはそれこそを「ヒロイン中心主義」と呼んだのだ。
ここでの「物語中心主義」とは、プレイヤーが受身の存在と定義するのではなく、積極的に作品に参加する存在と定義する考え方である。ライアーソフトの作品にゲームパートが多い理由はこれであり、この考え方のルーツは前身である遊演体にあると考えられる。
つまり、PBMやTRPGのような作品とプレイヤーの相互交渉を、擬似的にでも美少女ゲームの中で表現しようという意図がライアーソフトには存在しているのだ。そして、この意図の下に作られた作品は、基本的にプレイヤーに向けて開かれたものになるはずである。
しかしながら『Forest』はそのライアーの「物語中心主義」を逆手にとったため、閉じられた作品になっている。*13そのため、開かれた作品に価値を置く登山論の視点では評価が厳しいものになった。だが、めておの<はざま>もまた美少女ゲームにおいてプレイヤーの存在に重きを置く考え方に連なるものである。その一点において両論はしっかりとつながっている。
わたしの文章がどれほど説得的であるかは疑問の残るところではあるが、なんとか綻びを結びへと繕って、わたしがライアーソフトに見た夢の形ぐらいは示すことが出来たと思う。
いつか誰かがこの論を開いてくれることを祈りつつ、この論を閉じる。

*1:遊演体(ゆうえんたい)は、1987年に設立された日本のゲーム製作会社である。プレイバイメール(PBM)、テーブルトークRPGTRPG)、PCゲームの製作などを行っていた。

*2:論としては現在のライアーソフトの主力ライターの一人である桜井光がシナリオの一部を担当した『Angelbullet』を目印にして大まかに前期と後期を分けている。

*3:全CGの90%を透視可能。(公式HPより)

*4:『行殺・新撰組ふれっしゅ』はED数が優に10を超えており、ライアーのEDの多様性における一つの完成形であるが、メインライターが違うので、ここでは取り上げない。

*5:フレーバーはCG閲覧などの、いわゆるオマケにカテゴリーに置かれている。

*6:この論では「登山=アルマ、たたら=アイーシャ、めてお=ソヨン」として扱う。「月刊うそ」2号より

*7:トラウマの解消が兵士としての大成を意味すること。絶対平和主義者のサブヒロインが悲惨な最期を迎えることなど、皮肉さをもったゲームであることも確かである。

*8:新宿脱出はやはり例外的だ。

*9:「」は筆者による

*10:腐り姫読本P30

*11:ここではレースの順位に関係なく主人公が総合優勝してしまうゲームデザインなどを念頭に置いている。大きな声では申せぬが虫も潰しておいてくれるなら、その方がいいのは言うまでもない。

*12:一般にはそう認識されている。

*13:作中で『ぶるまー2000』のけーこちゃんが死ぬのは何とも象徴的だ。