『世界でいちばんNGな恋』についての感想

世界でいちばんNGな恋 廉価版

世界でいちばんNGな恋 廉価版

星の巡りに導かれて『世界でいちばんNGな恋』を今更ながらにやったら、珍しく嫌な作品だったので、備忘録も兼ねて。
このゲームで何が嫌いかと言えば、美都子ちゃんが嫌いなわけでして、あまり世間一般と合わないことは想像に難くないのですが、嫌いなもんは嫌いなわけです。
もちろん、美都子ちゃんは可愛いし、いい子だとも思うんですが、結局のところ、彼女の欲しがったソレが、私にはどうしても受け入れがたかったということなのでしょう。
このゲームのフラグ構造を考えると一発で分かることなんですが、このゲームにおける美都子と他の三ヒロインって非対称性が凄いわけです。他のヒロインのフラグを立てる選択肢をどれだけ選んでも、最終的なルート決定の選択肢において、美都子の方を選べるにも関わらず、他ヒロインとのフラグを立てなかった場合は選択肢すら出ずに美都子ルートに近づいてゆく。ヒロインとのフラグを立てなかったんだから当たり前だろうという意見もあると思うんですが、最後なんて美都子に対する選択が半分くらいあるにも関わらず、どんなに拒否しても最終的には必ず美都子を選べてしまうようになっている。それくらい、美都子というのは主人公にとって特別な存在なわけです。
この非対称性は各ヒロインのシナリオにおいても展開されていて*1、美都子以外のヒロインのルートにおいて、美都子は主人公に「女」として愛されるのを断念する代わりに、「娘」として愛される地位を維持し続けます。このことは他の三人のEDでラストCGに美都子が写り込むことによって象徴的に表現されるわけですが、その逆は起こりません。何故なら美都子ルートにおいて、主人公の「娘」への愛は、美都子を離れて別のところに居場所を見つけたりはしないからです。
もちろん、この物語の先に想いをはせるなら、主人公の「娘」への愛は近い未来にしかるべき場所を見つけるでしょう。とはいえ、物語の内部ではそのようなことは起きないわけで、「女」と「娘」としての愛は両方とも、美都子に注がれている状態であると考えることが出来ます。そして、彼女は心底そのように愛されたかったのではないかと私には思えてならなかった。ソレがどうしようもなく嫌だったんですね。
主人公を一番良く知る人物が指摘するように、これは最終的には主人公が美都子に向けていた愛が純粋に「娘」へのものではなかったことに起因するとも言えるんですが、それよりもそれを敏感に嗅ぎ取った美都子さんが怖い。みたいなことになってしまって、どうにもならなかったという感じでしょうか。
NGなものってあるよねって、それだけのお話でした。
形はどうあれ思い入れをした作品だとも言えるので、割とおすすめ。美都子ちゃんは、裏表の無い素敵な大家さんです。

*1:というよりシナリオを反映したルート構造と言うべきなんだろうけど。

花散峪山人考

花散峪山人考

花散峪山人考

raiL-softの過去三作をやってきた人間として、このゲームの一章をプレイしたとき、作品に秘められたポテンシャルに身を震わせた。
言うまでもなく、その身震いの原因は、伊波冬矢という主人公の造詣にある。過去三作において、raiL-softの主人公に欠けていたものは覇気であった。これはシナリオライターの希の好みである幻想的な物語に主人公が絡め取られていく様子と、それを読むプレイヤーの境地を重ね合わせるための処置であって、性格は違えど流れのままに異界へと身を浸していく男たちを、私は三作を通して眺めてもきた。
だが『花散峪山人考』の主人公はその類型の対偶にあるのだ。タイトルにある山人というのは、今作における異界の象徴とも言える言葉だが、そのビジュアルを表すのは『霞外籠逗留記』や『信天翁航海録』に登場した、あの判子のように顔が似た少女たちの縁類である。
この物語は、そんな少女たちを伊波が憎悪の下に花と散らすところから始まるのだ。過去作において、異界を異界として機能させるための歯車のように形象されてきた少女たちをである。
ならば、これは相克の物語だ。希は今回もその異界好みを一時すら手放しはせず、にも関わらず、その主人公に異界の全てを滅ぼし尽くさんとする漆黒の意志を与えたのだから。その行き着く先に描かれるものが何であるかは、自ずと見えてくるというものである。
それを茶番と言うのであれば、言っていればいい。生と死すら越え出た彼らの物語が辿り着く、侵しがたいほどの静謐さには、間違いなく一見の価値が存在している。これだけは保障しよう。作り手はその果てまで、決して筆を緩めることはなかった。*1もしも、体験版を手に取り、私のように傑作の予感に震えたなら、それは決して裏切られることはないだろう。
なるほど、欠点はある。このような癖のある文体で、構成に緊迫感が欠けるとなれば、それは物語を読み進める上での難所になるだろうし、終盤の花散峪を見れば、希の手癖を想起せずにはいられない*2かもしれない。それでも、この作品には瑕疵を塗り潰すだけの力がある。道程の険しさに報いるだけの絶景がある。読み終わって尚、反芻したくなる静けさがある。それだけで、もう、十分ではないだろうか。
積んでた自分を恥じました。かなりお勧め。

*1:最後の最後で少々、筆が過ぎたのではないかと個人的には思いもするが。

*2:意識して過去作に寄せてる気もするが、効果として読みの多層化より既視感が先立つのも確か。

言い訳

さて心機一転、前回の記事の言い訳です。
問題点は色々とあるのですが、一番の問題はエロゲの「主人公」をめぐるモデルを上手く作品と馴染ませることが出来なったことにあるのかなと思います。
細部を切り捨ててADVにおける「主人公」のモデルを考えたときに、思考の中心になるのは、「主人公」が孕む二重性であると言うことが出来ます。
つまり、「主人公」とは、ADVというスタイルに最もコミットメントとした存在、いわゆる視点キャラクターのことを指す言葉である同時に、その作品内の物語における中心人物を指す言葉でもあります。
別の言い方をするなら、前者はプレイヤーが存在する「外」との関わりを意味し、後者は「内」における配置、他のキャラクターとの間にはりめぐらされた関係性のネットワーク*1を意味しています。
もちろん、この二重性は「主人公」を抱えるゲーム一般に生じえるものではありますが、エロゲの物語性への過剰な傾斜という事態において、メタゲーと称されるような「主人公」というものの性質に対して自己言及的な作品がそこそこの数出現したのも事実であって、そのような系譜の中に七橋を位置づけようという意図もあったりはしました。
エロゲにおいて、「主人公」への言及の上で最も多用されたモチーフは、おそらく「視点」でしょう。その最も有名な例はエロゲではないのですが、言うまでも無く、このモチーフは「主人公」というものを「外」にいるプレイヤーとの関わりにおいて表現しようという方向性に根ざしています。これは「視点」というモチーフが往々にして「分離」という物語上の処理と結びつくことからも明白でしょう。
何よりも「外」に「主人公」の根拠を求めたとき、作品「内」との接点を失い、最終的には物語の中から排除される。これはプレイヤーのプレイの完了と分離を重ね合わせたとき、劇的な効果を生みうる美しい解釈です。
ですが、それはその美しさのために、「主人公」というものから何かをそぎ落とし、物語の解釈の幅を狭めているのではないかと思うのです。言葉にしてしまえば当たり前なのですが、「主人公」というものは「外」や「内」*2に還元しきれるような形で、作品に存在しているわけではありません。*3そうではなくて、重なるように、あるいは相互に参照し合うような形でそこに存在しているのです。
そのようなものとしてクゥ・クランを描写しようとして、見事にポシャらせた。というお話でした。
敗因は、時間をかけすぎて電波の出力が落ちたことなんだろうなとは少し思う。

*1:「ライバル」や「ヒロイン」と言ったような

*2:またエロゲじゃないのですが、ガンパレのような複数の介入者という世界観解釈を例に挙げておきます

*3:もちろん、極端まで推し進めた解釈に合わせて作品を作るということは考えられるが、それでも「内」と「外」というものは発生してしまうのではないかと思う。

言われるまでもなく酷い。作品を削って、自分のモデルを貫通させれば、もう少しまとまったものにも出来たのだろうけど、実際の作品がそうなっていないのに、そうするのも嘘つきかなと思い、基本的には没原稿からコピペしてでっち上げてみたりした。
この後には希論の何かが続くのが筋なのだが、基本的にはゲームの外と内の境界として観念されるテキストというものの立場をめぐる話で、わたしの問題意識は今回のと変わらないので特に書く必要もないかという気はしている。*1
とりあえず普通にブログを更新できる人間に戻りたい。今日この頃。

*1:というか、うだうだしている内に自分の中で完全に混ざった。

当初から、わたしにとって焦点を成していたのは七橋における「声」の問題だった。言うまでもなく、クゥ・クランの読心能力に関するボイスとテキストの差を用いた演出は、この作品のユニークな部分として周知されている。
だが、一般にこの部分は演出としての特徴として捉えられ、「声」を作品の要素として、物語の読解に有機的に組み込むという方向性は、作品の終盤におけるボイスレス化を含む諸々の失速という事態にあって、あまり追求されてこなかった。
しかし、この物語が終盤においてすら「声」の獲得や喪失というモチーフに彩られている以上、「声」を単なる演出上の手管と解するのは適当とは言えない。
つまり、七橋という作品において「声」をその中心におくような読解の可能性を探求すること。これが、わたしが数年前にあとがきで予告した文章の趣旨であった。

そして、わたしの構想では、「声」とはエロゲの主人公に記されたスティグマとして機能するものだと考えられていた。
この方向性を追求するための足がかりになるだろうと思われた作品内の要素は大きく三つあり、一つ目はもちろんクゥ・クランの読心能力をめぐる演出、二つ目はクゥ・クランのメシアという役割の無根拠さ、三つ目は作品に仕組まれた叙述トリックだった。
一つ目の要素がクゥ・クランの主人公性を示す印として機能しうるということに関してはあまり反論はないだろう。「声」と「文章」の差を用いた演出は確かに特徴的なものではあるが、同時に一種の既視感をともなってもいるからだ。
情報の格差を用いた演出。つまり、立ち絵の赤面や、独語じみた愛の告白など*1、主人公を通り抜けてプレイヤー側にだけ知覚される情報の提示によって、こちら側をジリジリさせる手法というのは、エロゲでも定番の一つでもある。*2
このように見たとき、クゥ・クランの読心能力とは、エロゲの視点とキャラクターの認識が重ねることによって半ば強制的に生じる曖昧な領域を、キャラクターの側から記述してみせたものだと考えることが出来るだろう。そして、そうであるが故にこの読心能力は、二つ目の要素と相まって、クゥ・クランを捩れた場所に連れていくことになる。
物語終盤のおいて、クゥ・クランが「メシア」という旅の主役の地位を占めるのは、彼が持つ凡世界一の「声」を聞く能力に起因することが判明する。だが、その後の展開において示されるのは、彼がそのような能力を持つ原因が、まさに彼が「メシア」として関わった旅の結末と切り離せない形で存在しているということだ。この一種の循環構造によって、彼がそのような生を強いられなければいけなかった理由は、作品の内部から完全に排除されてしまう。
もちろん、わたし達には何故に「理由が無い」かを説明することは容易だ。クゥ・クランは「主人公」であるから、それだけで全てが済んでしまう。
だが、純粋な作品内において、世界樹によってもたされる構造を打破しうるものは理論的には存在しない以上、そこにおいて、循環の内に存在するクゥ・クランの運命はどこまでも悲壮だ。それはあたかも、この旅路のために生き、そして奉げられる生贄のようなものとして立ち現れる。
しかし、この物語においてクゥ・クランはそのような循環の先に行き着いているであり、「主人公」であるが故に物語内部では救いようもないというような、わたしの把握はそもそも的が外れているようにも見えるだろう。
そこで、叙述トリックが問題になる。
このゲームのメインヒロインであるエマは、言葉を発さず、読心能力を持つ主人公にすら心の内を聞けないという謎めいた人物として登場する。
そして、言葉を発さず心も読めぬエマの代わりに、何度も物語中に挿入されるのが、エマの声を伴ったモノローグ描写だ。プレイヤーはこの描写を、エマの内面だと理解してゲームを進めるが、物語の終盤においてこれが完璧な誤解であったことが明らかになる。

エマは廃人。
あの大戦の犠牲者なのだ。
人間同様のなりをしていても──
ゴーレム同様に、銘辞を読み与えねば、みず
から口に物を入れることも、排泄することもか
なわず、ただ衰弱し、死に至る。

このように作中の人物から称される通り、心を持たないエマには独白を行う余地が存在しないからだ。そして、その代わりに登場するのが、これらの描写は「現在まで」のエマによって行われた独白ではなくて、「現在」のエマが*3時を彷徨っていく折に紡いでいった言葉たちであるという解釈である。
このゲームを最初から再プレイすれば分かりやすいが、この解釈において、物語の要所に置かれたエマの「声」は、列車の彼女ではなく、過去から未来の時点へと戻ろうとする超越的な存在のものとして再構成される。*4そして、このような視点はまさに再プレイをしているプレイヤーの認識とよく馴染むものだ。つまり、二週目において「主人公」はクゥ・クランのみならずエマたりえるのである。
むろん、この解釈においても作品が有する循環構造そのものは解消しえない。せいぜい「主人公」が「主人公たち」になるだけだが、物語としてはそれで十分であるとも言えるだろう。
それで不十分であるというなら、EDムービーを見るのもいいのかもしれない。何の理由も無く聞こえてこなかった彼の声をもし<聞く>ことが出来るのであれば、それは長い旅路の終わりを告げる汽笛の音に違いないのだから。

残り

だから。じゃねえよ、という話なので、まだまだ続く。上の文章の最大のネックは*5、七橋を二周りプレイさせるようなインセンティブが作中に存在しないということで、それについては反論にしようもない。
そこで、自論を脇から補強するために「指示子」という言語学上の概念を持ち出すというプランがあった。*6
あらゆる言語には、必ず指示子を含んだ単語というものが存在する。例えば、「わたし」、「ここ」、「今」という単語がそれである。
"わたしは今ここにいます"そう私たちが話したとき、その意味は間違いようがなく自明である。しかし、紙の上に「わたしは今ここにいます。」と書いた場合はどうだろう。「わたし」が「今」いる「ここ」とは、誰で何時の何処のことを意味しているのだろうか。
ここに「話された言葉」と、「書かれた言葉」の、明らかな違いが存在している。「書かれた言葉」は、常により普遍的な意味を帯び、そこにおいて「言いたかったこと」は、絶対的に言いおとされる運命にあるのだ。
運命にあるのだ(笑)は置いておくとして、当然にここで第一に意図されたのは上記のような言語現象と、クゥ・クランの読心能力をめぐる演出「テキスト」と「ボイス」の差として現れる「声」との類比を示すことだった。とは言え、類比などと小賢しく言葉を振り回したところで、要は似ているかどうかという水掛け論から抜け出せず、年単位でもがいた結果、やはり無理だったというお話である。
第二の意図としては、この指示子がもたらす構造の物語的な言い換えとしてクゥ・クランの「メシア」という役割を捉えるということだった。

騎士団はあらゆる世界をめぐり、彼の者のエコーを探し求めた。ひたすらに。
見つからなかった。
彼は、完璧に死に絶えていた。

エスは死に、世界を変えた。
騎士団は、はじめて「犠牲」の真の意味を知った。

メシアであるイエスが行ったとされる「犠牲」。クゥ・クランに求められ、汎世界と呼ばれる平行世界を渡り、遍く可能性を探求しうる騎士であるモーガンが自らの力では達成できなかったもの。可能世界をにおける完全な死という図式の中に、「話された言葉」と「書かれた言葉」の関係性の変奏を幻視することは容易い。

容易い。ということにしておいて下さい。*7
こうようにして、クゥ・クランの読心の「ギフト」と「メシア」は「指示子」という概念によって共通の構図の中に還元される。
であれば、その構図をもう一度「ギフト」と「メシア」という二つの要素に当てはめて見ることも可能だろう。先頭の方で記したが「ギフト」とはつまりエロゲのシステム面からの「主人公」へのアプローチであった。そして、「メシア」とはこの物語の「主人公」を指し示す言葉だった。ここにエロゲの主人公をめぐる二つの「言葉」がある。では、その「言葉」を可能にするために失われていなければならないものとは何か、というような。

残りの残り

先ほどはシステムと物語と書きましたが、それは別の言い方をするなら、プレイヤーがいる外側とキャラクターがいる内側ということにもなります。これをゲームだと認めるのであれば、少なくとも内側と外側には何らかの関係性が存在すると観念されるでしょう。
クリックやオートプレイの是非を問わず、外側からの干渉によって立ち現れるのはテキストでありボイスです。では内側の観点から考えたとき、往々にして一人のキャラクターの認識という形で表現されているテキストやボイスはどうようなものとして立ち現れるのでしょうか。
この問いには答えが無く、無数の解釈がありうるだけです。
七橋がどのような解釈を取ったかを解釈するのはわたし達の自由ではありますが、作中にはその苛烈なものの一つが仄めかされています。

人間同様のなりをしていても──
ゴーレム同様に、銘辞を読み与えねば、みず
から口に物を入れることも、排泄することもか
なわず、ただ衰弱し、死に至る。

ある意味で七橋というのは、このような解釈をプレイヤーが塗り替えるゲームだったのかもしれないなーとか。

残りの残りの残り

そもそもとして、エロゲの主人公に課せられているのは、エロゲにおける「今、ここ」を指し示すことではないか。*8という思い付きがあり、それの対応物として、そこで現に行われている言語活動そのものをリファレンスすることによって「今」という時間を開き、過去と未来の語りを可能にするという指示子の持つ固有の機能に注目したという経緯があって、七橋をその考えを表明するための踏み台にしようとしたのが間違いの始まりかなという気はしないでもない。

*1:これはまさに、聞こえない「声」を聞くことだ。

*2:もっと言えば、わたし達はヒロインがまさに「ヒロイン」であることを知っている訳だが。

*3:エマはクライマックスにおいて万能の力を宿す世界樹に触れて人格を再構成する。

*4:このとき、クゥ・クランの元へと走るエマのイメージを重ねることも或いは可能だろう。

*5:わたしに起因する諸々の問題をのぞいて

*6:無論、衒学趣味に走って読者を煙に巻こうと企てたのだ。

*7:水掛け論パート2

*8:未来は未だ叙述されず、過去はログの中に納められてしまうのだから。

ヨタトーーーク

二回目にして既に書きあぐねたので、我ながらどうかと思う。
近年ずっと考えていたことに、ADV式エロゲ*1における時間経過というお題がある。つまり、これらのエロゲの内部には一般的な映像作品に仮構しうるような、作品世界固有の時間経過というものが存在しない。*2おおよそ三行ごとに表示されるテキストが作内においてどの程度の時間経過と結びつくのかを推察することが基本的に不可能である以上、たとえオートプレイといえども、プレイヤーの時間感覚を曖昧に作品に投影せざるえないからだ。*3
このような投影が可能になるのは、ADV式エロゲにおいて表示される全体が作品世界における「いま、ここ」を指し示しているという暗黙裡の了解が成立しているからではないか。というようなことを考えたとき、主人公の認識という形を通して「いま、ここ」と絡み合うテキストの類縁から「主人公」というもののモデルを取る動機が成立しうるだろう。
などと自分の方針を糊塗してみたが、エロゲを構成する要素を大雑把に分ければ、絵、文字、音なのであって、絵に拠っている視点といった考えた方ではなく、文字や音といった要素に拠った「主人公」というものへのアプローチがあってもいいだろうという程度の話なのだとは思う。
次は何か考えます。

*1:言うまでもなく、ADV式エロゲにも無数の差異があるのであって、タイトルどおりの与太話ではある。

*2:例えば、恋姫無双シリーズは、その曖昧さを利用して、黄巾の乱から赤壁の戦いまでという長大な時間経過を、プレイヤー側に誤魔化したまま最後まで逃げ切っているように思える。

*3:システムが与えてくる時間としてカレンダー、テキストが与えてくる時間として朝起きてから寝るまでを描写する手法などが考えられるが、これらは目安であっても時間経過そのものではない。