キャラクターが病むということ・傍論

この記事なんかも、ある意味では同じことを言ってるのかなと思う。より外部的な部分から規定しないと、キャラクターは病んだりしないということ。
というよりは、キャラクターの定義の仕方を変えると、キャラクターは原則的に病んだり出来ないのかもしれない。自分の記事を見直すと、「物語」としての規定は「壊れる」ことによって初めて、鑑賞者に認識されるということらしい。
なんで最も根本的な規定が意識されないかと言えば、元々そういう性質のものではあるにしても、意識されない様にされてるんだろう。
何にかと問われれば、「記号」によってだ。と答えるのが順当かとは思う。*1「記号」によって「物語」が隠蔽されている状態を基本として、キャラクターを定義すれば、内面性を汲みだす根源が無いのだから、病んだりも当然できない。
あるいは、こういう状況においてなら、東さんの言ってるデータベース的共有みたいな概念を理解できる気もする。けど、「物語」の拘束を、隠蔽されて無いように見えると考えるのと、自由になってると考えるのは全く意味が違うし、理解への道は遠い。*2
大上段を目指して過ぎて、取り止めが無くなった感じがする。反省もありますが、とりあえず読んでくれた方の思考の足しになれば、幸いですね。

次は、川上稔についての記事の予定。

*1:顔を赤らめながら少女が「義理だから。義理。」と言ってチョコを差し出すシチュで、「ああ、この子は自分の気持ちを素直に出せない性分なんだ」と思うのと「これは良いツンデレ」と思うのとの差。

*2:感覚の話だから、同じことなのかもしれない。