当初から、わたしにとって焦点を成していたのは七橋における「声」の問題だった。言うまでもなく、クゥ・クランの読心能力に関するボイスとテキストの差を用いた演出は、この作品のユニークな部分として周知されている。
だが、一般にこの部分は演出としての特徴として捉えられ、「声」を作品の要素として、物語の読解に有機的に組み込むという方向性は、作品の終盤におけるボイスレス化を含む諸々の失速という事態にあって、あまり追求されてこなかった。
しかし、この物語が終盤においてすら「声」の獲得や喪失というモチーフに彩られている以上、「声」を単なる演出上の手管と解するのは適当とは言えない。
つまり、七橋という作品において「声」をその中心におくような読解の可能性を探求すること。これが、わたしが数年前にあとがきで予告した文章の趣旨であった。

そして、わたしの構想では、「声」とはエロゲの主人公に記されたスティグマとして機能するものだと考えられていた。
この方向性を追求するための足がかりになるだろうと思われた作品内の要素は大きく三つあり、一つ目はもちろんクゥ・クランの読心能力をめぐる演出、二つ目はクゥ・クランのメシアという役割の無根拠さ、三つ目は作品に仕組まれた叙述トリックだった。
一つ目の要素がクゥ・クランの主人公性を示す印として機能しうるということに関してはあまり反論はないだろう。「声」と「文章」の差を用いた演出は確かに特徴的なものではあるが、同時に一種の既視感をともなってもいるからだ。
情報の格差を用いた演出。つまり、立ち絵の赤面や、独語じみた愛の告白など*1、主人公を通り抜けてプレイヤー側にだけ知覚される情報の提示によって、こちら側をジリジリさせる手法というのは、エロゲでも定番の一つでもある。*2
このように見たとき、クゥ・クランの読心能力とは、エロゲの視点とキャラクターの認識が重ねることによって半ば強制的に生じる曖昧な領域を、キャラクターの側から記述してみせたものだと考えることが出来るだろう。そして、そうであるが故にこの読心能力は、二つ目の要素と相まって、クゥ・クランを捩れた場所に連れていくことになる。
物語終盤のおいて、クゥ・クランが「メシア」という旅の主役の地位を占めるのは、彼が持つ凡世界一の「声」を聞く能力に起因することが判明する。だが、その後の展開において示されるのは、彼がそのような能力を持つ原因が、まさに彼が「メシア」として関わった旅の結末と切り離せない形で存在しているということだ。この一種の循環構造によって、彼がそのような生を強いられなければいけなかった理由は、作品の内部から完全に排除されてしまう。
もちろん、わたし達には何故に「理由が無い」かを説明することは容易だ。クゥ・クランは「主人公」であるから、それだけで全てが済んでしまう。
だが、純粋な作品内において、世界樹によってもたされる構造を打破しうるものは理論的には存在しない以上、そこにおいて、循環の内に存在するクゥ・クランの運命はどこまでも悲壮だ。それはあたかも、この旅路のために生き、そして奉げられる生贄のようなものとして立ち現れる。
しかし、この物語においてクゥ・クランはそのような循環の先に行き着いているであり、「主人公」であるが故に物語内部では救いようもないというような、わたしの把握はそもそも的が外れているようにも見えるだろう。
そこで、叙述トリックが問題になる。
このゲームのメインヒロインであるエマは、言葉を発さず、読心能力を持つ主人公にすら心の内を聞けないという謎めいた人物として登場する。
そして、言葉を発さず心も読めぬエマの代わりに、何度も物語中に挿入されるのが、エマの声を伴ったモノローグ描写だ。プレイヤーはこの描写を、エマの内面だと理解してゲームを進めるが、物語の終盤においてこれが完璧な誤解であったことが明らかになる。

エマは廃人。
あの大戦の犠牲者なのだ。
人間同様のなりをしていても──
ゴーレム同様に、銘辞を読み与えねば、みず
から口に物を入れることも、排泄することもか
なわず、ただ衰弱し、死に至る。

このように作中の人物から称される通り、心を持たないエマには独白を行う余地が存在しないからだ。そして、その代わりに登場するのが、これらの描写は「現在まで」のエマによって行われた独白ではなくて、「現在」のエマが*3時を彷徨っていく折に紡いでいった言葉たちであるという解釈である。
このゲームを最初から再プレイすれば分かりやすいが、この解釈において、物語の要所に置かれたエマの「声」は、列車の彼女ではなく、過去から未来の時点へと戻ろうとする超越的な存在のものとして再構成される。*4そして、このような視点はまさに再プレイをしているプレイヤーの認識とよく馴染むものだ。つまり、二週目において「主人公」はクゥ・クランのみならずエマたりえるのである。
むろん、この解釈においても作品が有する循環構造そのものは解消しえない。せいぜい「主人公」が「主人公たち」になるだけだが、物語としてはそれで十分であるとも言えるだろう。
それで不十分であるというなら、EDムービーを見るのもいいのかもしれない。何の理由も無く聞こえてこなかった彼の声をもし<聞く>ことが出来るのであれば、それは長い旅路の終わりを告げる汽笛の音に違いないのだから。

残り

だから。じゃねえよ、という話なので、まだまだ続く。上の文章の最大のネックは*5、七橋を二周りプレイさせるようなインセンティブが作中に存在しないということで、それについては反論にしようもない。
そこで、自論を脇から補強するために「指示子」という言語学上の概念を持ち出すというプランがあった。*6
あらゆる言語には、必ず指示子を含んだ単語というものが存在する。例えば、「わたし」、「ここ」、「今」という単語がそれである。
"わたしは今ここにいます"そう私たちが話したとき、その意味は間違いようがなく自明である。しかし、紙の上に「わたしは今ここにいます。」と書いた場合はどうだろう。「わたし」が「今」いる「ここ」とは、誰で何時の何処のことを意味しているのだろうか。
ここに「話された言葉」と、「書かれた言葉」の、明らかな違いが存在している。「書かれた言葉」は、常により普遍的な意味を帯び、そこにおいて「言いたかったこと」は、絶対的に言いおとされる運命にあるのだ。
運命にあるのだ(笑)は置いておくとして、当然にここで第一に意図されたのは上記のような言語現象と、クゥ・クランの読心能力をめぐる演出「テキスト」と「ボイス」の差として現れる「声」との類比を示すことだった。とは言え、類比などと小賢しく言葉を振り回したところで、要は似ているかどうかという水掛け論から抜け出せず、年単位でもがいた結果、やはり無理だったというお話である。
第二の意図としては、この指示子がもたらす構造の物語的な言い換えとしてクゥ・クランの「メシア」という役割を捉えるということだった。

騎士団はあらゆる世界をめぐり、彼の者のエコーを探し求めた。ひたすらに。
見つからなかった。
彼は、完璧に死に絶えていた。

エスは死に、世界を変えた。
騎士団は、はじめて「犠牲」の真の意味を知った。

メシアであるイエスが行ったとされる「犠牲」。クゥ・クランに求められ、汎世界と呼ばれる平行世界を渡り、遍く可能性を探求しうる騎士であるモーガンが自らの力では達成できなかったもの。可能世界をにおける完全な死という図式の中に、「話された言葉」と「書かれた言葉」の関係性の変奏を幻視することは容易い。

容易い。ということにしておいて下さい。*7
こうようにして、クゥ・クランの読心の「ギフト」と「メシア」は「指示子」という概念によって共通の構図の中に還元される。
であれば、その構図をもう一度「ギフト」と「メシア」という二つの要素に当てはめて見ることも可能だろう。先頭の方で記したが「ギフト」とはつまりエロゲのシステム面からの「主人公」へのアプローチであった。そして、「メシア」とはこの物語の「主人公」を指し示す言葉だった。ここにエロゲの主人公をめぐる二つの「言葉」がある。では、その「言葉」を可能にするために失われていなければならないものとは何か、というような。

残りの残り

先ほどはシステムと物語と書きましたが、それは別の言い方をするなら、プレイヤーがいる外側とキャラクターがいる内側ということにもなります。これをゲームだと認めるのであれば、少なくとも内側と外側には何らかの関係性が存在すると観念されるでしょう。
クリックやオートプレイの是非を問わず、外側からの干渉によって立ち現れるのはテキストでありボイスです。では内側の観点から考えたとき、往々にして一人のキャラクターの認識という形で表現されているテキストやボイスはどうようなものとして立ち現れるのでしょうか。
この問いには答えが無く、無数の解釈がありうるだけです。
七橋がどのような解釈を取ったかを解釈するのはわたし達の自由ではありますが、作中にはその苛烈なものの一つが仄めかされています。

人間同様のなりをしていても──
ゴーレム同様に、銘辞を読み与えねば、みず
から口に物を入れることも、排泄することもか
なわず、ただ衰弱し、死に至る。

ある意味で七橋というのは、このような解釈をプレイヤーが塗り替えるゲームだったのかもしれないなーとか。

残りの残りの残り

そもそもとして、エロゲの主人公に課せられているのは、エロゲにおける「今、ここ」を指し示すことではないか。*8という思い付きがあり、それの対応物として、そこで現に行われている言語活動そのものをリファレンスすることによって「今」という時間を開き、過去と未来の語りを可能にするという指示子の持つ固有の機能に注目したという経緯があって、七橋をその考えを表明するための踏み台にしようとしたのが間違いの始まりかなという気はしないでもない。

*1:これはまさに、聞こえない「声」を聞くことだ。

*2:もっと言えば、わたし達はヒロインがまさに「ヒロイン」であることを知っている訳だが。

*3:エマはクライマックスにおいて万能の力を宿す世界樹に触れて人格を再構成する。

*4:このとき、クゥ・クランの元へと走るエマのイメージを重ねることも或いは可能だろう。

*5:わたしに起因する諸々の問題をのぞいて

*6:無論、衒学趣味に走って読者を煙に巻こうと企てたのだ。

*7:水掛け論パート2

*8:未来は未だ叙述されず、過去はログの中に納められてしまうのだから。