言い訳

さて心機一転、前回の記事の言い訳です。
問題点は色々とあるのですが、一番の問題はエロゲの「主人公」をめぐるモデルを上手く作品と馴染ませることが出来なったことにあるのかなと思います。
細部を切り捨ててADVにおける「主人公」のモデルを考えたときに、思考の中心になるのは、「主人公」が孕む二重性であると言うことが出来ます。
つまり、「主人公」とは、ADVというスタイルに最もコミットメントとした存在、いわゆる視点キャラクターのことを指す言葉である同時に、その作品内の物語における中心人物を指す言葉でもあります。
別の言い方をするなら、前者はプレイヤーが存在する「外」との関わりを意味し、後者は「内」における配置、他のキャラクターとの間にはりめぐらされた関係性のネットワーク*1を意味しています。
もちろん、この二重性は「主人公」を抱えるゲーム一般に生じえるものではありますが、エロゲの物語性への過剰な傾斜という事態において、メタゲーと称されるような「主人公」というものの性質に対して自己言及的な作品がそこそこの数出現したのも事実であって、そのような系譜の中に七橋を位置づけようという意図もあったりはしました。
エロゲにおいて、「主人公」への言及の上で最も多用されたモチーフは、おそらく「視点」でしょう。その最も有名な例はエロゲではないのですが、言うまでも無く、このモチーフは「主人公」というものを「外」にいるプレイヤーとの関わりにおいて表現しようという方向性に根ざしています。これは「視点」というモチーフが往々にして「分離」という物語上の処理と結びつくことからも明白でしょう。
何よりも「外」に「主人公」の根拠を求めたとき、作品「内」との接点を失い、最終的には物語の中から排除される。これはプレイヤーのプレイの完了と分離を重ね合わせたとき、劇的な効果を生みうる美しい解釈です。
ですが、それはその美しさのために、「主人公」というものから何かをそぎ落とし、物語の解釈の幅を狭めているのではないかと思うのです。言葉にしてしまえば当たり前なのですが、「主人公」というものは「外」や「内」*2に還元しきれるような形で、作品に存在しているわけではありません。*3そうではなくて、重なるように、あるいは相互に参照し合うような形でそこに存在しているのです。
そのようなものとしてクゥ・クランを描写しようとして、見事にポシャらせた。というお話でした。
敗因は、時間をかけすぎて電波の出力が落ちたことなんだろうなとは少し思う。

*1:「ライバル」や「ヒロイン」と言ったような

*2:またエロゲじゃないのですが、ガンパレのような複数の介入者という世界観解釈を例に挙げておきます

*3:もちろん、極端まで推し進めた解釈に合わせて作品を作るということは考えられるが、それでも「内」と「外」というものは発生してしまうのではないかと思う。