リトルバスターズ考察における現在・その2

自分の書いた考察で後から読んで一番失敗したと思ったのは、夢オチに対するフォローが不完全だったことなんですよ。ここで言う夢オチというのは尾張小牧ネットワークさんの考察にある、来ヶ谷ED2までを全て夢世界の中に内包する説で、個人的には総夢オチ説と呼んでるんですが、この説は純粋にテキスト上に根拠を求めると、否定できる要素が存在しないわけです。
一度目の鈴との病室のシーンが夢であるなら、次に展開される救出劇が夢であっても問題ないし、救出劇が夢であるなら、来ヶ谷ED2は当然に夢の中に出来事になりますから。
ただ、全てを夢の中で処理するのは、作品のテーマ性と乖離が激しいので、感覚的には受け入れがたいので、先の考察から外したんですが、近頃考えが変わりました。
当然、OPが海に変わる時点でプレイヤーに現実と虚構の判断を保留させるのは、意図されたことのはずです。であるからこそ、来ヶ谷ED2の位置に意味が生まれると考えるのはどうでしょうか。
来ヶ谷唯湖は作中で終ってしまう物語への悲哀を独白します。これは棗鈴が最後に語る決別の言葉と正反対にあると言っていいはずです
その姉御を持ってすら夢という物語から出て行くのだ、そういう意味性がED2には込められていて、逆算的に総夢オチの可能性が否定されるという構造なのかなと思うんですよね。
こういう否定の仕方が、何処までも虚構に優しい目を向ける麻枝准というシナリオライターに、個人的にはしっくり来る。どうでしょうか?
ただ総夢オチも一つの美ではありますよね。

リアル(現実世界)はどこにもない。ただ、バスが燃えている。

              
                        「まえだじゅん」ぷちさいあく理論

この残酷さも嫌いじゃないけど、今回のカラーではないと思う。結局は感性の問題なのかなぁ。
これから考察する人は、ここら辺の見極めが全体像に関わる大切なポイントだと思うので、留意してくだされば幸いです。