奈須きのこ作品に関する小話

奈須きのこ考」なるものをチマチマ書いてたら、長くなりすぎた上に面白くないという二重苦を体験したので、話を細切れにして誤魔化す。
まあ、本当にカッチリしたノベルゲーの話を読みたい人は仮想算術の世界とかで読んでください。
さて今回の小話は、『空の境界』『月姫』『Fate/stay night』の話題に限って、二つのFDには触れません。FDにも奈須きのこ分とでも言うものが色濃くあるわけだけど、ファンサービスと奈須の個人的趣向を私の目では分離できないから、いつも以上のグダグダを避けるための必要な措置だと思ってください。
一つだけ書くとすれば、『Fatehollow ataraxia』の後日談の背後にあるのは、梶島天地だなと思った人は、きっと私と友達になれます。*1
一回目の主な話題は奈須作品における明白な共通点である「ラストエピソード」です。『Realta Nua』でわざわざ足されたことを斟酌しても、意味がありそうな部分だと思うんですよね。ではいきます。
さて、ラストエピソードの共通点は要約すれば「邂逅」なわけだが、ここで問題となるのは何と出会ったかであり、何故出会ったかだろう。
「」と黒桐、青子と志貴、セイバーと士郎(エミヤ)。彼らの関係の共通点を上げれば男女であること。そして女側がある意味で、男側の物語の始まりに関わっていることぐらいだ。
PC版の『Fate』にラストエピソードが存在しないことが証明しているように、彼らが出会う物語上の必然性は存在しない。
それでも、この「邂逅」に奈須きのこが意義を見出していると仮定するなら、たぶん出会う理由の方が重要だろう。
具体的に『月姫』で考えてみよう。*2この物語の最後で、主人公である遠野志貴蒼崎青子と「邂逅」する。
そこで告げられるのは志貴の「死」だ。少なくともハッピーエンドとは言えないこのシーンこそ、ラストエピソード全体の本質を端的に示しているように私には思える。
wikipediaによると奈須きのこは自作への『ONE』の影響を認めているが。どう影響しているかを考えれば、虚構世界に関係する事柄だと考えるのが妥当だろう。そして『月姫』における虚構世界とは、「真祖」に代表される世界内のシステムのこと以外に無いと思う。
奈須きのこは多くの組織を自らの作品世界に配置している。しかし、その細かい設定を作品内で物語ることはまずない。*3これは私達が日常生活で感じる、世界は多くのシステムに満ちていて生活を支配しているが、その多くは不可知だ。という類の認識と関係しているはずだ。*4
こう見れば、「七夜」というシステムから外れ、同時に死を「視る」ことが出来る遠野志貴が、システムの定めた運命を突破するのに適材であることが分かる。
だがここまでなら古くから幾らでも存在する認識に過ぎない。麻枝准の特異性が『リトルバスターズ』で披露した突破を表現の手段と見る認識であるとするなら、奈須きのこの特異性は目的であるはずの突破を究極的には不可能と見る認識ではないだろうか。
遠野志貴は全てのヒロインの幸せに導いた後で、言い換えるなら自分の周りに存在したシステムを突破した後で、最後の草原に立つ。
この時、青子が告げるのは、たとえ一時的にシステムを突破したにしても、容赦なく存在する「定め」だと言えるのではないか。
空の境界』のラストで黒桐が出会う「」が告げるのは、両義という「システム」から逃げられたわけではないという、残酷な事実ではなかったか。
そして『Fate』のラストが幸せそうに見えるのは、セイバーが「運命」そのものを象徴するという構造が原因だとは言えないのか。
彼らが出会うのは「物語が終るから」だと私は考えている。
理由になってないのを承知で話を進めると、この理由からは当然、「何故、物語の終わりだから出会うのか?」という新たな問いが生まれる。
そして、この問いは「何」と出会うのか?という問いと本質的には同じものだと思う。
つまり、全ての突破を終えた「物語の終わりだから」こそ、もはや突破するものが残っていないからこそ、逃れきれないものを認識し、それと「邂逅」するのではないだろうか。
しかし、ラストエピソードが意味するのは、決して突破の無意味さではない。そこにあるのは、突破によって虚構世界は揺らぎえないという。奈須きのこの奇妙なほどの確信だと私は思う。
さらに言うなら、この虚構世界の構築と突破という一見相反する要素の融和性への自覚こそが、作家・奈須きのこの特異な位置の理由の一つではないだろうか。

全然、小話にならなかった。あと何回かある予定。自分で読んでてすら、どうにも面白くないので今回で仕舞い。

*1:Heaven's Feelのtrueにも似た匂いがする。

*2:次の話題にもなんだけど、言うまでも無く、志貴は黒桐と式の両方の役割を統合したキャラなので、記号性が強くて横断的な考察の基礎に向いてる。

*3:遠く(組織)は曖昧に近く(個人)は詳細に設定を置いてる。たとえば西尾維新はどちらも曖昧。

*4:陳腐な表現だけど、内臓の存在を意識するのは、内臓が不調な時だけ。