ヨタトーーク

あけましておめでとうございます。適当にアウトプットしたら、頭がすっきりするかな。などと思ったので、去年に考えてたことを垂れ流してみようかなと。
去年の前半に考えていたことに、エロゲの「主人公」の在り方を、どのような形象で把握するべきか。という問いがありました。
例えば、緻密なメタ構造を有していたことで名高い『スマガ』において、やわらかウンコマンとかちかちウンコマンの関係は、テレビという形によって作品内部で表現されていました。このエロゲというものをテレビに模すという手法は、それを作品内部に取り入れるかはさておき、終了時の画面演出などを含めれば、そこそこの数の作品において見受けられるものです。
おそらく、このテレビという表現において含意されているのは、プレイヤーとエロゲを結びつける最も基礎的な要素とは視点である。という考えた方です。ここでは視点はある種の中立的な制度として、カメラアングルのようなものとして把握される傾向があります。そこでは視点の機能そのものは、主人公の認識と重なることはあるにしても、交わる力は持たない中性な存在であり、往々にしてプレイヤーとゲームとの交わりは選択肢*1という形で別個に表現されるでしょう。
確かに、選択肢は最も顕著にプレイヤーが「主人公」に干渉する場所です。そして、ある種の自律性をそなえた「主人公」をピーピングしながら、選択肢という制度においてその自律性に干渉するプレイヤーという構図は、近年の個性豊かな主人公という方向性を見たとき、十分な説得力を持ってもいます。
にも関わらず、わたしはそこからどうしようもなく一歩後ろに下がってみたい。
そもそも、エロゲにおける視点とは何でしょうか。
わたしがプレイ時に現に得ている視覚情報でしょうか。何十種類のパターンしかないと背景と登場人物の立ち絵によって表現される主人公の視覚イメージでしょうか。それとも、テキストによって描写される何らかの情景でしょうか。
おそらく、そのどれをも一部ずつ含みながら、エロゲというメディアによって形成される何らかの認識上の焦点である。というのが何も言っていないに等しい無難な答えでしょう。
それは実際、よく分からないものです。そのようなものを基礎とするより、所与として存在する視点というものを採用してしまった方が、作品というものを誰にとっても理解しやすい形で構築できるように素人目にも思えます。
ですが、あえて一歩下がってみようとした作品があると思うのです。視点ではなく、視点の形成を最も基礎的な要素と解して、エロゲにおける「主人公」を作品の中で十全に表現しようとした作品が。
そこでは「主人公」をめぐる形象はもっとプリミティブなものに還元されるでしょう。例えば、言語めいたものに。(続くのか?)

*1:増加が多いよね。