補足。

友人から笑っちゃうくらい面白くないですね。と言われたので、前回の記事の書き足し。実際の話、ここからは個々人の感覚の問題であって、エクストリームスポーツの一種な気がしないでもない。
個人的に考えていたのは、何故に私を含めて多くの人が、無印より真を、その中でも魏ルートを良いものだと感じるのか。という問いだった。その答えは無難に、全体的なバランスの良さに落ち着いたのだが、ではこのゲームにおける全体的なバランスの良さとは何に起因するのか。と問いを続ければ、地獄まであと一歩といった感じである。
言うまでもなく、ADV型エロゲにおける全体のバランスとは、テキスト、立ち絵芝居、BGM及びSE、CGの有無、声*1などの総和としてプレイヤーに感得されるものであり、これを多少でも分析的に語るのは私には腰が引ける作業である。
そこで選択システム面における作品のカラーとの不調和に無印と真の差を見出してみたのだが、前回の記事ではそれすらも徹底されてはいなかった。
というのも、無印の選択システムが呼び起こす印象については書き連ねながらも、その洗練形と称した真のシステムが呼び起こす印象については、それが全体のバランスという問題系に抵触することを嫌って、何も書いてないに等しいからである。
などと長々と言い訳を書いたが、すっぱり個人としての印象を書くのであれば、このような選択システムを取ることによって、個別ヒロインのイベントパートは総体として、FD的とでも称すべき非時間的な質を手に入れることに成功しているように感じられた。*2もう少し詳しく説明してみよう。
そもそも、この両作品は大きく三つのパートに分けることが可能であり、演義的な物語をなぞる共通パート、戦闘を表現するゲームパート、ヒロインたちとの戯れを閲覧するイベントパートがそれにあたる。
この中で最も時間性を有しているのは演義的な時間を有した共通パートであり、無印においては、ゲームパートはその発生のタイミングによって、イベントパートは共通パートの展開に従ってヒロイン選択画面で選択可能なヒロインが増えるという方式、個々のヒロインの最終イベントの多くがEDで待ち受ける主人公の消失を暗示する内容であること、共通パートでのヒロインたちとの関係の深化などによって*3、かなり強力に共通パートの持つ流れの中に組み込まれていた。*4
別段、これが悪手というわけでもないが、真の魏ルートにおいてはこれは反対の手法が取られている節がある。*5
つまり、ヒロインたちはより早くに全員が攻略可能になり*6、全体としてイベントパートと共通パートとのつながりを示唆するような描写はかなり程度まで減少するのだ。*7
これによって各ヒロインのイベントシーンは、前後関係という最小限の時間性こそ存在するものの*8、それが何時起こったのかは限りなくあやふやな性質のものに近づいていく。結果、イベントパートは共通パートからある種独立したものとして私達の前に立ち現れることになる。
そこで描写されるのは20年以上に渡る物語の時間の中の何処かにあった何気ない日々の出来事であり、イベントパートはそこに無限にエピソードを挿入できるような「場」として機能し始めるだろう。*9
*10


結局、一歩もエクストリームしなかったね。というダルダルした腿肉を嘆きもしない人の戯言でした。

*1:私には語りえないので、設定周りの利便性の問題については省く

*2:というか、ADV型エロゲはその素体において、17年の時間を違和感なく接続できてしまう程度には非時間的なものなわけだけど。

*3:おそらく、無印の共通パートはここまでに閲覧しえた全てのイベントが起こった態で描写されている。

*4:無論、先述のヒロイン序列も間接的にだが一役買っているだろう。

*5:ゲームパートはほぼ変化がないものと見なす。キャラ立ての部分では多少の進化も見られるが、戦争描写へのリソースの軽減、ひいてはヒロイン間の不平等の発生の形式的な排除などの役割は両者とも共通している。

*6:無印において19回あるイベントフェイズのうち最後の一人が開放されるのは16回目だが、真では魏ルートで14回の7回目、呉ルートでは10回のうち5回目、蜀ルート12回のうち9回目、で全員がそろう。呉ルートも同じく早いが、共通パートの進行によって孫策のイベントが途中から閲覧不能になる点でより共通パートに服従的であると考える。

*7:魏ルートにおいて曹操のラストイベントが一刀の消失を示唆していることを考えると、両者の力関係もまた明らかではある。共通パートから見れば、イベントパートが受け持つ役割とは、共通パート間の唐突な時間経過に対する緩衝材に過ぎないのであり、そもそも強固なつながりなど必要ないのである。

*8:それも時に乱れるが

*9:個々のヒロインのイベントに他のヒロインを介在させることへの意識の高さも、「場」の強度を高めるのに一役勝っている。

*10:あるいは、夏侯惇の眼帯はどのように説明するのか。といった反論がありうるかもしれない。確かに、共通パートで発生する夏侯惇の目玉食いの前後によってイベントパートの彼女の立ち絵には変化が生じる。これは一見すると、共通パートの時間軸にイベントパートの時間軸が強固に隷属している証のようにも見える。しかし、もし本当に隷属が存在するのなら、共通パートの時間のどこかにイベントパートを振り当てることが出来るのであれば、そもそも立ち絵の差分のみによって同内容のイベントを二つ用意する必要などないのだ。何故なら、そのイベントが起きたとき、夏侯惇には左目が在るか無いかのどちらかしかありえないのだから。むろん、これは現にプレイしている人間に浮かびうる解釈ではないが、これについては事後的な解釈以外にはありえないし、注目に値するのは、立ち絵の連続性が時間よりも上位にあることだろう。