『夜明け前より瑠璃色な』について少々

三年目にして初体験をしたので、ちょっと思ったことなど書いておきます。この記事ですね。
上の文章から順に述べていくのが正しいマナーなのかもしれませんが、ここが重要なのかなと個人的には思ったので、そこから先に書いておきます。singingrootさんは先の記事の中で、このように述べています。

けよりなには TRUEルートがあり、そのことが「個別ルートがテーマを通してTRUEに奉仕している」といったしばしば見る論調を生み出しているのだろうけれど、私に言わせればそうした把握はズレている。

これは私の

フィーナが自分の問題に提出する答えが、この作品における一種のマニフェストに当たる。つまり「姫」という社会的な役割から切り離された「本当の自分」のようなものは存在しない。自分自身というのは社会的な相互作用の中で成立するようなものに過ぎないのだ。

このような認識がシナリオを重視したエロゲにおいて必ずしも常識でないことは、それほど説明する必要のない事柄だろう。*1大雑把に言ってしまえば、この認識からのバリエーションで他のヒロインのシナリオは理解出来るのかもしれない。

というようなシナリオの全体把握への意義申し立てなわけです。
ここで私とsingingrootさんのけよりな解釈は激しく激突するはずなんですが、実際のところ私にとってはそうでもない。何故かと言えば、私も「個別ルートがテーマを通してTRUEに奉仕している」という解釈には、あまり価値を置いてはいないからです。
がっつり四つに組めなくて恐縮なんですが、私とsingingrootさんの違いは、私が先の解釈は成立しうるが退屈なので価値がないと考えているのに対して、相手はそもそも解釈として成立しないので価値がないと考えている点にあると自分は把握しています。
その上で、私が自身でも退屈だと考えている解釈にそって前の記事を書いたのは、この解釈がけよりなにおける最も公式的な解釈であるという意味で無視できないものであると思っていたからです。
singingrootさんは

けよりなにおける恋愛は、無根拠で偶然的なものだ、ということは勝山氏自身も述べているところだ*1。まあ一応達哉くんとフィーナちゃんとの幼い頃の邂逅ってのはあるけど、別にそれが二人を結び合わせた原因かといえば、(少なくとも本人たちにとっては)違うだろうし。ということは、ルートごとに目指す姿はミクロには偶然性に左右され、異なる、となる。誰にも通用する真実=神が存在せず*1、目指すべき理想はミクロに見れば偶然的なものであるとすれば、そこに統一的なテーマたりうる確かな命題を見出すことは難しい。そして、別に見出す必要もないのである。

と書いています。ここで私がどこかに「誰にも通用する真実=神」を見出しているとするなら、それはルートの配置であるということになるでしょう。この作品は、初回フィーナルート確定の後、四人のヒロインが開放され、その後、もう一人のルート開放へて、フィーナルートの続編である「夜明け前より瑠璃色な」というTRUEルートに進むことが出来るように設計されています。
つまり、物語の最初と最後は必ずフィーナによって占められることは確定しており、加えて他のルートを全て攻略した後に開放されるTRUEルートにはわざわざ作品名と同じ「夜明け前より瑠璃色な」という名称が付けられているわけです。
そこから私は、けよりなというのはフィーナの物語であって、後編のルートにタイトルと同じ名前が付けられいるのは、このルートが今までのフィーナ以外のヒロインのルートも含めた全ての総決算的な位置に属しているのだ。という解釈を採用したのですが、これはさほど突飛なものではないと思います。
少なくとも私の感覚では、自分で言及した恋愛の無根拠性などを含めて、このルート規制を用いた解釈の方向付けを覆すほどの強い要因は読み取れませんでした。もちろん、そこには感性の違いがあるので別の読み方はありえるでしょうが、この解釈を絶対的に否定できるようなものは作中には存在しなかったと思います。
それなので、私にとって『夜明け前より瑠璃色な』の読解というのは、「個別ルートがテーマを通してTRUEに奉仕している」という退屈な解釈を前提として置きながら、作品をより面白いと思える方に誤読していくという遊びになります。私の記事における菜月の記述なんかはそういったことを含意してるし、リースの記述も極端な逆張りを行なってみたということですね。



では長々と述べたところで、頭のところに戻りたいと思います。

勝山氏はこう述べた後、"「本当の自分」のようなものは存在しない"という観点からけよりなを見ていく。しかしどうも私には、それは単に「常識的なシナリオを重視したエロゲ」の見方に囚われているだけではないかな、と思える。

フィーナちゃん達にとって"自分自身というのは社会的な相互作用の中で成立するようなもの"という事実は、単なる常識にして前提に過ぎないだろう。彼ら彼女らにとって、それはある種当たり前のことでしかないし、クライマックスに至るずっと前から普通にそういうことを口に出している。

ここで問題になっているのは、第一に私が作品全体を通した観点を設定してから物語を解釈していることで、第二にその設定した観点そのものが作品内では当たり前の事柄であって、観点として成立しないことだと思います。
第一については上で書いたので割愛すると、第二についての対立というのは、「フィーナちゃん達にとって"自分自身というのは社会的な相互作用の中で成立するようなもの"という事実」が、私からすれば一つの観点になりうる程度にはエロゲとして特殊であり、singingrootさんからすればそうでもないと考えられていることに起因します。私は近頃の所謂萌えゲーというジャンルに疎いので、この程度のことは今のエロゲでは驚くことではない。と主張されればグーの音も出ないのですが、少なくともオーガストの前作である『月は東に日は西に』では、このような観点を立てることは出来なかったわけで、そこに注目することはそこまで酔狂な行為なのでしょうか。
私が作品のマニフェストであると持ち上げているものが、向こうからすれば作品を成立させる上での基礎に過ぎないにしても、両者とも登場人物が「自分自身というのは社会的な相互作用の中で成立するようなもの」という考えを持っているという点までは同意していることになります。そこまで同意が進めば、この二つの主張の間にさほど決定的な断絶が存在するとは私には思えないのです。
下にいくと

"折衝しながら自らを肯定し続ける過程である"。この把握が正確である。彼ら彼女らにとって問題になっているのは、二つの性質がどちらも自分であるということそのものではなく、そうした種々のものごとと、いかに折衝していくか、というその過程なのである。言ってみれば、「どちらも自分である」ということの一歩先こそが、そこでは問題になっているのだ。
だから、"自分自身というのは社会的な相互作用の中で成立するようなもの"というのは本当は違って、"自分自身というのは社会的な相互作用の中で生成され続けるもの"とでも言った方がいい。

と書かれています。まあ、私の記事なんてチラシの裏と名乗ったくらいなので、どんな扱いを受けてもいいのですが、「どちらも自分である」≒"自分自身というのは社会的な相互作用の中で成立するようなもの"、その一歩先≒"自分自身というのは社会的な相互作用の中で生成され続けるもの"は誤読ではないだろうか。少なくとも私は社会との諸関係から切り離された「本当の自分」のようなものは存在しないと主張していたわけで、「どちらも自分である」と主張するときの自分は「本当の自分」の親戚か何かに思える。

こないだ私がフィーナちゃんのことを王女と呼ぶべきだ、というよーなことを言ったのもそういう話で、別に彼女は周囲のしがらみに縛られた存在ではないのである。彼女は自らの意志で王女として振舞っているのだから。

私が書いたのは、フィーナは周囲のしがらみに縛られない「自らの意志」というようなものは存在しないと意識しているという類のことなので問題意識としては対立するのだけど、「自分自身というのは社会的な相互作用の中で成立するようなもの」という部分までは同意があったはずなのでよく分からない。


あまり時間を置くのも鮮度をさまたげるので、中途半端ですがバトンタッチ。主要なところには触れられたと思うのですが、エンターテイメントにはほど遠いですね。無念。

*1:誤字:に⇔も