『白光のヴァルーシア』ついて思うこと

白光のヴァルーシア ~What a beautiful hopes~

白光のヴァルーシア ~What a beautiful hopes~

月四回は更新したいと考えてるのですが、私の意志力の弱さを笑ってください。今月はここから頑張って、目標に到達したいと思います。では一発目。
ライアーソフトの26番目のタイトルにして、桜井光ラインの最新作『白光のヴァルーシア』、聡明な太守によって都市の閉鎖をとかれ、外部との交流によって変わりゆく砂漠都市ヴァルーシアを舞台に、主人公であるアスルとそれを取り巻く人々の群像を描いた作品です。
率直な感想を言うと、私は桜井光というシナリオライターを見誤っていたのかなと思いました。具体的には、前作にあたる『漆黒のシャルノス』に対する自分の理解が浅さを感じたということでしょうか。
ライアーソフトでの桜井光の作品には、「手をさしのべる」というモチーフが頻繁に登場します。私はシャルノスまで、この手に込められているのは無償の愛だと考えていました。*1しかし、ヴァルーシアにおいてアスルの手に込められているのは確実に無償の愛ではない。
何故なら、アスルがヒロインのクセルに手を差しのべるのは、彼女と知り合いになる前だからです。それでも彼は彼女の小さな叫びに手を差し出すのです。この手に込められていたのは何なのでしょうか。私にはこれが「友情」の手であるように思えました。
「友情」という言葉の古臭さに拒否感を覚える人もいると思いますが、*2この作品で紡がれる「友情」とは、アスルが絶対に交わらないであろう城の内と外を超えて、クセルに手をさし出すように、自分の世界を超えていく行為です。
アスルの手は世界を超えて差し出されるが故に、拒まれる可能性を持ち、彼自身を傷つけるかもしれないものです。それを理解しながら、傷つくことを恐れず差し出さされた手。そこには眩しいほどの勇気が存在している。たぶん、アスルの手こそがタイトルにもある白光*3の象徴なのだと思います。
アスルは自分の差し出した手に責任を持つことによって、自らもまた成長していきます。「友情」は互いに世界を広げていけるような関係性を含んだ営みなのです。
この「友情」と対比させられるものが、この作品には存在しています。それは「神の愛」です。万能を名乗るレオの手は、ほとんど全てを救えるが故に、拒まれる可能性を持ちません。「神の愛」はひたすらに与えるものです。与える側はこの営みにおいて何も得るものを持たないでしょう。
レオの苦悩は究極的にはここに集約します。彼は多くものを持ちながら、何もそこから得ることが出来なくなっている。そして、これはシャルノスのMにも当てはまります。彼らは自らの閉塞を感じながら、その能力の高さによって自らの世界を閉ざしてしまっている。*4
彼らを孤独の檻から救い出したのは、神ならざる人の手です。*5人間は全てを救う力など持ちはしません。ですが傷つくことを恐れず、自分の世界を超えて手を差し伸べることが出来るなら、絶望の中にいる誰かを救うことが出来るかもしれない。この作品で描かれたのは、そういう「友情」なのだと私は思います。
これは青臭い理想なのかもしれません。それでも、この物語には美しさがある。それが全てではないでしょうか。

以上、シャルノスを読めてなかった反省文でした。いい作品だったと思います。群像劇としては視点の切り替えが、物語のテンポを乱してる箇所もありますけど、個人としてはかなり好きです。良作。おすすめ。

*1:インガノックの手は無償の愛なんだと思うけど。

*2:少なくとも私は覚える。

*3:ヒカリって読んでね。

*4:望めば全てが叶う世界に住んでいるのに、いかなる理由によって外を求めなければいけないのか。

*5:ジャンヌも当てはまるでしょう。