『サクラダリセット』について思うこと

まず始めに書いてしまえば、ブログを更新するネタが全くわかない。だが考えてみれば、ブログなんてものは書くネタが無くなってから、如何に記事を捻り出せるかが書き手としての面白さなんじゃないかと思ったので、ダラっと書いていきたい。
近頃、よく出来た物語をいくつか読んだ。その一つに『サクラダリセット』という作品がある。しかし、「よく出来た」というのは考えもので、作者の意図にカッチリとはまれないと、妙に斜にかまえる羽目になってしまう。つまり私にとっては、この小説はそういう物語だったわけだ。
サクラダリセット』は青春小説の匂いを感じさせる学園異能ライトノベルで、前述したようによく出来ている。戯言シリーズからアクを取って爽やかさを増したら、こういう作品になると思う。
それの何に引っ掛かったかと言えば、物語の最後の辺りで、主人公たちが空を見上げながら飛行機雲を見つけるシーンだったりする。ここで出てくる「青空」の予定調和ぶりがどうにも自分には気にかかった。*1
きっと私とは違う場所には、「青空=青春」の等式が存在する地域も存在するのだろうし、それ自体を否定するつもりは毛頭無い。だが、このシーンでは「青空=成長」という象徴性が明らかに存在している。これは見事なテクニックではあるが、結局はそれだけの話である。
「青空=成長」というモチーフが成立するのは端的に言えば「空ってこんなにも青かったんだ──」というテンプレ化した気づきのパターンから来ている。しかし、注意しなければいけないのは、人は何の脈絡もなく空を見上げ、それにも関わらず青い空に驚きを感じるということである。事件を解決し経験値をつんだ結果として、空を見上げるという行動が可能になるわけではないのだ。ここに『サクラダリセット』という物語の欺瞞がある。
戯言シリーズいーちゃんに比べて、本作の主人公である浅井ケイはスマートである。過去には何かしら抱えてるにしても、むやみに韜晦はしないし、何より事件解決において病院送りになったりしない。
だが、それは本当に良いことなのだろうか。いーちゃんが毎回病院送りにされるのには、他人と関わると自分の世界が傷つくというメタファーが含まれている。自分の思い通りにならないからこそ、他人は他人なのであって、その事実によって自らの世界が傷つき再構成されること、これを成長と呼ぶのだと私は思う。
確かに浅井ケイも、敵によって被害を受けることは受ける。それも自らの死という究極の被害を。しかし、それも含めて全ては彼の描いた計画通りなのだ。ケイは自らの死すらも利用して、敵を説得し、物語をハッピーエンドへと収束させる。
そして、この主人公は敵であった友と二人で空を見上げるわけだ。彼の世界は1ミリたりとも傷つかなかったように私には思える。*2浅井ケイはきっと空を見上げながらこう考えるのではないだろうか。「考えた通り、空って青いな。」と

*1:正確には二人が空を見上げるタイミングは同じではないが。

*2:彼女の方はそうではないのかもしれない。