『東のエデン』についての小話

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今期のアニメで評判が高いものを挙げれば、間違いなく『東のエデン』は一位か二位を占めるだろうが、私自身どうも上手く観賞仕切れていない感覚がするので、そこら辺を中心に少し書いてみたい。
このアニメにおける重要な事件である政令指定都市へのミサイルの投下が、『パトレイバー2劇場版』における東京へのミサイル攻撃を意識したものであることは、わざわざ説明する必要もないだろう。師から弟子へと続く系譜はそれ自体で麗しい小話として成立しうるだろうが、両作品の対比もまた多いに示唆的であると思う。
パトレイバー2における「日本は戦後からやり直す羽目になる」という言葉が米軍による再占領を意味し、セレソンの一人が言い放つ「日本は戦後からやり直す」という言葉が新しい日本の創造を意味するとき、ここで明らかになるのは『東のエデン』の歴史に対する無感覚だ。
その代表例は、主人公そのものだと言える。ホワイトハウスの前で全ての記憶を失った状態で物語に登場する滝沢朗は、自らの記憶を失いながらも常に飄々としたキャラクターとして描かれている。彼は作中で挙げられるジェイソン・ボーンのように自分の謎を追いかけながらも、ボーンのような緊迫した物語を歩むわけではないのだ。*1
あるいはミスターアウトサイドの正体にしても、十二人のセレソンというシステムにしても、日本を変えることを目的としながら、そこには日本に即した何かがあるわけではない。*2日本を変えようとするときに「日本」という制度へ無頓着であることが、この作品では当然のこととされている。*3
確かに私だって東京という街に生きながら、かつての焼け野原を想像したりしないし、今日と同じ明日と昨日が永遠に続いていくような歴史のない世界に生きている。そんな日常こそ『東のエデン』に表される世界そのものなのかもしれない。だが、そんな世界に寄りかかっている存在に、何かを変える資格があるのだろうか。
なるほどテロで世界は変えうる。「9・11」後の現代を生きる私たちにとって、それはもはや前提条件に過ぎない。だからこそ何かを変えようとする者は歴史と真摯に向き合うべきだと私は思う。犠牲の上にしか創造が成せないのだとしても、その犠牲と向き合うことすらしない人間は「ノブレス・オブリージュ」という言葉から最も遠い存在である。
果たして滝沢朗は高貴な義務に相応しい存在なのだろうか?そんなことを思いながら残り数話を見るのも一興だろう。適当な〆がないので終わり。

*1:もちろん過去探索そのものが、物語において大切な要素なのも確かである。

*2:むしろシステムそのものから日本的な固有名詞が排除されている

*3:no.1は勝ちが見えた時点で官僚を辞めてしまう。