『スマガ』のいわく言い難い感じを言語化する。

『スマガ』をプレイした後で私は精神的な残尿感というか、ある種の違和感を味わったんですね。この作品はとても良く出来ていて、シナリオにも不満はないし、何が原因なんだろうなとプレイ後ずっと考えていて、その答えが出たので少し書いておきます。
端的に言ってしまえば、この感覚の原因はEDロールにおける「Hero is you」という文面にあると言えるでしょう。この時のyouは通常の読みを行えば、スマガという物語を最後まで進めたプレイヤーのことを指しています。*1
つまりプレイヤーはメタレベルで物語に干渉する存在と捉えることが可能なわけです。ですが、プレイヤーを内部に取り込んだ作品には、物語の結末を決定できないという問題が存在するのではないでしょうか。
『スマガ』のかなり前に『Ever17』というゲームがあります。この作品は要約すると、ある儀式によって作品内に召還されたプレイヤーが、作品世界で起こった悲劇が回避しハッピーエンドに至るというものです。この作品は『スマガ』と似た構造を持っていると言えますが、シリーズの続編である『Remember11』で、この構造そのものに一つの問題提起が行われています。
Remember11』においてプレイヤーはまた作品世界に召還されます。そして、このゲームにおいて明確なエンディングというものは存在しません。別の言い方をするならば、呼び出されたプレイヤーが作品世界の中を永劫にさまようという事実を知ることが、このゲームのエンディングなのです。
ここで提起されているは、一度作品内にプレイヤーを織り込んでしまうと、作品内における結末の必然性がなくなってしまうということです。何故ならば、作品内にいるプレイヤーは提示された結末を拒否できる立場として存在してしまう。つまり、物語の結末は恣意的なものに過ぎないという事実が明らかになってしまうわけです。それを逆手にとることで『Remember11』という作品は成立しています。
しかし『スマガ』という作品において真のEDが絶対的なものではなく、一週目のスピカEDと同等の価値しかないという結論はとても採用できるものではありません。
そうである以上、youはプレイヤーではなくうんこマンを指すと考える必要があります。プレイヤーは物語内の関わっておらず、そう読めるのはミスディレクションに過ぎないわけです。
それで「この誤誘導に何の意味があるのか?」というのが、私の違和感の原因なんですね。全ての結末には恣意性がつきまといます。しかし『スマガ』のような構造のゲームにおいて、それは隠蔽しなければいけない要素なわけです。
にも関わらず、このミスディレクションはそれを全面的に露出してしまう。EDロールで高らかに示された恣意性を持って、どこに行けばいいのかが私には分からない。*2だから、とても違和感が残る。
言語化終了。


余談ですが、この問題と別の形で向き合っている作品として『うみねこのなく頃に』を挙げることも可能でしょう。物語をどのように終わらせるかというのは、奈須きのこ星空めておとかも意識している問題なのかなとは思います。戯言だけどね。

*1:プレイ開始時に行われるヒロインとの会話、神様(幼女)が語りかけてくる言葉などからも、一般的な解釈であると思う。

*2:二回目の真エンドは、ハーレムルートから行けるんだってさ。