他者性と倫理コードという思い付きの残骸

なんとなく『腐り姫』を再プレイしてたら*1樹里って自分の中でヤンデレ邪悪ヒロインのボーダーにいると感じたので、感覚に理屈をつけようと思ったら、最終的にヤンデレ邪悪ヒロインの差が分かる人と分からない人がいるのは何故なのか、という問いに帰着した。
ゲームにおいてヒロインの他者性は、基本的に主人公と付き合うという一連の動作を経て解消される。それと共にヒロインが持っているはずの倫理的なものも、主人公基準に再構成される傾向が強い。
その為に起こるヒロインの他者性と倫理コードの混合、その問題に焦点を当てることが、一番大きい枠としてのヤンデレの成立条件の一つだと言うことも可能だろう。
そして、それを前提としつつ、物語の基準になる主人公の視点と物語外のプレイヤーの視点の差異が時に都合よく混合されることを意識すると、邪悪ヒロインヤンデレの差が理解できるんじゃないかという提案を、樹里と自分の中で完璧に邪悪ヒロインに分類される孔麗を例にとって説明して、その後で主人公の特異な倫理コードを意図的に前面に押し出したFateの話を桜ルート中心に検討して話を締める。
そんな壮大な小話を載せようと思ってたんですが、八割書いたところで丸々消してしまったので、悔しいから構想だけ書き残しておきます。壮大なだけで中身はスカスカだったから、これぐらいが一番な気もする。塞翁が馬。

*1:突っ込みは受け付けません。