セカイ系ヒロインとしての玖渚友

この前の記事を読んだ友人に、玖渚友が戯言使いの世界を変換してるように見えないと指摘されたので、一つ説明してみようかと思う。
読み直したわけではないので、大雑把な話になるが、本編に登場する玖渚友は基本的にアンチ・セカイ系ヒロインだと個人的には考えている。
これはセカイ系批判という意味ではなく、純粋に役割として逆位置にあるという意味だと理解してもらいたい。
本来のセカイ系ヒロインが戯言使いの「世界」を変換するとすれば、アンチは「戯言使いの世界」を変換する役割をはたす。
この説の根拠は主に最終巻における西東天への生死選択だ。これによって戯言使いはセカイ系に残ることを選ぶ。
多くの指摘があるように、西東天を殺す/殺さない の選択において殺さないことを選らぶ物語上の必然性は存在しない。
実際のところ、ここで問題になっているのは玖渚友を救わない/救う の選択であって、西東天は代理物に過ぎないように私には思える。
そして、この選択は青色サヴァンを壊さない/壊す の選択でもあるわけだ。
もちろん、この選択は凄まじく捩じれている。そして、救いと破壊を同値する歪んだセカイの原因は、過去における玖渚友といーちゃんの関係(「キミ」と「ボク」)の断絶に他ならないだろう。
玖渚友はいーちゃんに壊されることによって、本来の役割の逆位置に立つ、それに連動して世界もまた反転する。つまり、戯言使いの現実を侵食しながら、物語はどんどん進んでいく。
そして、その果てにかつて玖渚友を壊すことによってセカイから逃げ出した戯言使いは、逃げ出したセカイに追いつかれ、青色サヴァンを壊すことによってセカイを肯定するわけだ。
この捩じれた循環が戯言シリーズの一番外の骨子だと思うだけど、どうなんだろうか。
哀川潤セカイ系主人公(セカイと直接的な関係を持てない)の極端な姿に見えるところを考えると、かなり初期から構想はあったようにも思える。
あと、ミステリーとして最後にあたる『サイコロジカル』がデビュー作の『クビキリサイクル』と謎が似通っているのも、ある種の循環を意図してのことではないか。