セカイ系について思うこと

おいおい、今更セカイ系かよ。時代は「決断主義」で「サバイヴ感」だぜ。という意見もあるだろう。それはそれで結構なことだ。
有用な道具だと思えば使えばいいし、私みたいに魅力を感じなければ、他の言葉をこねくり回せば事足りる程度のことに過ぎない。自分の感性を的確に言い表せる言葉を、各々が尊重し合うのが大切だと思います。*1
さて、セカイ系という言葉の定義が一つに収束していない以上、まず最初に自分の考えを述べることにしたい。
私の考えでは、セカイ系の最少構成要素は「キミ」と「ボク」と「セカイ」だ。そして、その三要素の関係性こそが、セカイ系というジャンルの一番外側の枠ではないかと思う。
外堀から埋めていこう。セカイ系というジャンルには、オタクの持つ受身的で非現実的な想像の所産というイメージが付きまとっている。
まあ、否定するのは難しいだろう。無力な「ボク」と戦闘美少女の「キミ」が「セカイ」の重大事に立ち向かう話。これを妄想と言わずに何と言おうか。
しかし、それの何が悪い。確かにセカイ系はオタクの持つ歪んだユートピア願望の象徴なのかもしれない。だがそれは、世に溢れる多くの虚構と区別されて蔑視されるものではない。
宇野常寛セカイ系的な想像力は、「引きこもり」思想だと言っている。その汚名も否定はすまい。そう見える面が多々あるのも確かだろう。
いかなる理由で人が引きこもるのか、私には明言することは出来ない。ただ、現代が引きこもりを誘発するような過酷さに満ちているとは言えるだろう。*2
別に新しい意見ではないが、現代の過酷さを語る上で「自己過敏」のような言葉が見逃せないかとは思う。
例えば

世界に合わせて、自分を削るか。自分に合わせて、世界を削るかだ。
                         『なるたる

という台詞をこういう認識を象徴的に表しているのではないか。
現実は容赦なく自分を削っていく、そうであるからこそ、私達は世界が自らを削らない優しい虚構を求める。
この希求を叶える方式は大まかに二つあるだろう。一つは、世界との摩擦を減らし、ある意味では究極的に「引きこもる」こと。もう一つは、自らが世界を削る側に立つことだ。
これの前者がセカイ系で、もう一つが。という類の言説は私には納得しかねる。
理由は簡単だ。私は私というオタクを知っている。現実では女神の前で口ごもり鉄の斧すら取れないしても、想像の中では金と銀の斧を両取りするのが私というオタクである。
だから、セカイ系の物語がオタク的な歪んだユートピアであればあるほど、そこにあるのは摩擦を避けながら世界を削るという矛盾に満ちた世界であるはずだと思うのだ。
注目すべきは「ボク」と「セカイ」の間を仲介する「キミ」の性質だ。先に答えを述べてしまえば、それは「変換」だと私は考えている。*3
つまり、「ボク」は「キミ」との出会いによって「セカイ」に直面するわけだが。この「セカイ」は「ボク」の現実を「キミ」というファクターが変換した結果に過ぎない。
故に「ボク」の現実は「セカイ」とパラレルに存在し続けて、否定されることが無い聖域である。
そして「ボク」は自身と関係を持たない「セカイ」という場において、関係しないが為に、システムに縛られず行動できる特権者としての地位を獲得する。
そして、その特権を絶対的に保証するため、「キミ」の変換は限界まで行使されることを求められる。
この視点から考えれば、セカイ系の物語において主人公に無力さが付きまとうのは、「セカイ」の深く関わることが主人公の特権性を奪う危険性を見越しての物語上の要求だと言えるだろう。*4
要すれば、セカイ系の最大の骨子とは、「ボク」が自らの現実を保持したまま、「キミ」の変換によって開かれた「セカイ」で世界を削る側に立つ物語だ。というのが私の考えなのだ。
そして、基本的に私達は、未だにその物語の変奏を消費し続けていると思う。ハルヒは言うまでもないにしても、『デスノート』は確かに少し違って見えるかもしれない。だが、結局は同じ穴の狢である。
説明すれば、「ボク」は夜神月であって、「キミ」はデスノート、「セカイ」はキラ出現後の世界だ。
確かに月は「セカイ」と直接的な関わりを持っているが、その逆転の代価として、無力さの代わりに悪性を背負っている。
この代価によって、月は最終的に自らと一体化した「セカイ」と切り離されて、死という自分の現実に呼び戻されることを運命付けられていると見ることは可能だ。
人の褌を拝借すれば、この記事で言われている「異形の力の獲得」の幼児性は、セカイ系決断主義作品の同質性を指し示しているのではないかと思う。
セカイ系って、まだまだポテンシャルが残ってるんじゃないかと言おうとして、グダグダした。*5以上ですが、補筆するかも。
あと、堀江貴文セカイ系だけど、小泉純一郎奈須きのこ系列な気がする。

*1:宇野常寛が自らに任じている立ち位置は、そのうち誰かがやる必要はあったよね。

*2:勿論、それは近代には近代の、中世には中世の過酷さがあると言うレベルの話に過ぎない。私達は与えられた条件から自らの過酷さを紡いでいく、そんな生物なのだ。

*3:例えば、西尾維新戯言シリーズにおいて、変換を司る玖渚友と戦闘美少女?の哀川潤 を分離させているが、セカイ系の物語として成立している。

*4:勿論、これは「君と出会って凍てついた僕の世界に・・・」という様なボーイミーツガールの極北だ。少なくとも、初期のセカイ系においては、例えば「最終兵器彼女」が物語的に少年漫画より少女漫画に近い展開を取ったことが示すように、その見解は正しいと思う。

*5:「ボク」の位置の操作は限界そうだけど、「キミ」を操作する方向は可能性がありそう。