『その可能性はすでに考えた』について適当に

その可能性はすでに考えた (講談社ノベルス)

その可能性はすでに考えた (講談社ノベルス)

デスゲームものというサブジャンルを現代ミステリの領域の一角に置くとするなら、その極めて特殊なバリエーションに属すると言うことは出来るだろう。何が特殊なのかと言えば、ゲームへ参加する動機である。普通のデスゲームものは金銭欲や死への恐怖でプレイヤーをゲームへと駆り立てるのが普通だが、この小説の登場人物である上笠丞とカヴァリエーレ枢機卿*1にはそのような強制が存在しないのだ。*2要するに、彼らはこの誰が見ても不毛としか思えない営みを自主的に行っているわけである。
だからこれは、一人の金も権力も持ち合わせた狂人が電波の波長が奇跡的ほどマッチした相方を見つけて、恥も外聞もなくイチャイチャしている物語なのだ。ということも出来る。

「わかるか、カヴァリエーレ……僕たちは本当は対立していたのではない。この対立を通じて、一つの事実を共に証明しようとしていたのだ。」(P.244)

そのような視点から見ると、上記からの台詞はカヴァリエーレへの愛の言葉ということなる。*3しかし、普通に考えるなら「この対立」という言葉は、小説内において反復された「推理披露→矛盾指摘→次敵登場」という一連のシークエンスを指示対象に含んだものだと理解されるだろう。
ここでで問題なのが、この一連のシークエンスというものが物語構造といったメタ的な要素を含むのか。ということである。おそらくだが作内において「この対立」という言葉を積極的にメタ発言として理解するべきだと示唆する文章はない。だから、この作品にメタミステリの要素を読み込むのは、どちらかという誤読である。
しかし、先に指摘したように『その可能性はすでに考えた』を何処までもベタに読んだとき、残るのは狂人たちによって築かれた無意味な空理空論の山でしかない。*4何より、私たちは本作を読んでいるとき、作品の荒唐無稽さを「ミステリ」というバイアスを通して処理していたはずなのだ。
もしこの物語を狂人たちの戯言以上のものにしたいと望むなら、私たちは作者によって提示されたゲームのルールに同意しなくてはならないだろう。だがその一歩の歩み寄りで*5、物語はミステリの名の下で聖別され、「この対立」は狂気から福音へと書き換わるはずだ。
あるいは、それこそが奇跡なのかもしれないないとか、何とか。

*1:先に出てくる三人にはそれぞれ参加の動機があるが、枢機卿代理人という立ち位置なのでここでは省く

*2:枢機卿は一度命を狙われているが、むしろ自分から積極的にちょっかいをかけに来てるので

*3:個人的には『逆転裁判2』のラストあたりを思い出さなくもないが

*4:何故それではいけないのか?という議論は十分にありうるが

*5:この一歩の中に、剥き出しのミステリの形式性とでも言うべきものが宿っていると書けば、『貴族探偵』シリーズあたりとリンクできるのだろうか