『ヴァンパイアノイズム』について少々

ヴァンパイアノイズム (一迅社文庫)

ヴァンパイアノイズム (一迅社文庫)

これが初の十文字青作品だったので、備忘録代わりに。
作品に寄り添うなら、この物語の主軸は二種類の「永遠」の差にあるように思う。
一つ目の「永遠」は言うまでもなく、ヒロインの萩生季穂が志向する「永遠」。言い換えるなら「無限の時間」、一年の百倍の百倍と言ったような、客観的に計れる時間をひたすらに延長した先にあるもの。もう一つは、主人公であるソーヤが無自覚のうちに理解している「永遠」。何気ない日々の中で見いだされる輝かしいもの、「何ものにも代えがたい時間」の経験である。
作品の中から説明すると、この物語における主人公サイドの達成というのは、ひそかに抱いていた浪人計画を取りやめるということになる。では何故に、浪人計画が問題になるのだろう。
それは恐らく、浪人計画において意図されるものが、時間の延長に過ぎないからだ。改めて書くまでもないが、ソーヤは自らが過ごす怠惰な日常を愛している。学校で近くの席の美少女を鑑賞し、帰りに適当に友人たちと遊び、家ではたまに気の置けない幼馴染が訪ねてくるというような日々の全体をだ。
しかし、時が流れていく以上、ソーヤの日々もまた変わらずにはいられないのであり、それに対して浪人というプランが選択されもする。だが、この選択は致命的な問題を孕んでいる。ソーヤが愛したのは何気ない日々なのであり、計画的に守ろうとした時点で、それは何気ない日々の資格を失ってしまうからだ。
物語はこのようなジレンマを初期条件にして始まる。ソーヤの飯抜きの「実験」は、彼が無意識下であれジレンマに足掻いていることを示しているだろう。そして、この足掻きの中においてこそ、ソーヤは萩生季穂と関ることになる。
いちおう断っておくと、私は別に、彼らの志向する「永遠」の違いが作中において問題になっていると主張しているわけではない。恐らく二人の「永遠」に対する認識は五十歩百歩であり、彼らを分けているものがあるとすれば、それは作品の視点上の制約に過ぎない。萩生が「無限の時間」に寄っているように見えるとすれば、「何ものにも代えがたい時間」に焦点を当てるための内面視点の不在に原因を求めるのが妥当である。*1
それにも関らず、私がこのような区分を作品読解に挿入してみたのは、小説の最後の数行に対応するためだと言える。

「わたしは星になる」
萩生の小さな手が、僕の手をぎゅっと握った。
「ずっとそばにいるから」
僕は萩生の手を握り返した。
目をつぶると、闇の中にひっそりと輝く星が見えた。

ソーヤは浪人計画を止め、萩生は自らも音楽を奏でることに前向きになる。目をつぶっても輝く星、どちらの「永遠」が良しとされたかはあえて言葉にするまでもないだろう。*2
しかし、それは物語の中で得られた結論なのだろうか。ソーヤから見れば、萩生季穂との関係は、愛した日々に対して破壊的にしか働かず、死への恐怖において彼の平穏な日々は完膚なきまでの終わりを告げるものでしかない。
もちろん、それはある程度までソーヤ本人が望んだことではあるのだろう。だが、自身の望みの果てを、完全に受容しなければならない法など何処にもないのだ。
死の恐怖の中で見出される日々の美しさ。そんな陳腐な方法論を眺めながら、空に輝く不滅の星を想わないでもない。佳作。

葉鍵に魂を囚われたロートルの繰言感が酷いですね。吸血行為の描写は何かキリキリしたものがあって良かったと思いました まる

*1:クラシック音楽との関係において、聞くことによってソレに主体的に関るソーヤと客観的な評価に価値をおく季穂というような対立はあるにはあるが。

*2:萩生の心中が異なる可能性はもちろんある。