『魔王「この我のものとなれ、勇者よ」勇者「断る!」』を読んで

ネット上で流行ってたので読みました。噂に違わずなかなか面白かったのでお勧めです。
全体の話とかは他の大手サイトで読めばいいと思うので、私は重箱の隅を突っつくような話をしたいと思います。
この話の実質的な主人公は最終的にメイド姉というキャラクターに移り変わっていくのですが、正直なところ私は彼女の体現する考えにはあまり感心しませんでした。だからこそ13スレ目にある

メイド姉「わたしは交渉自体不得手ですから」

という台詞を読んで、びっくりさせられました。この一文に明らかに彼女の考えの限界が含意されているからです。
メイド姉の考えは作中で魔王に称されるように古典的自由主義に属するものです。作中の言葉を借りるなら「人間/虫」を分ける考え方だといえるでしょう。言い換えれば、全ての人には所与として「人間」として生きる権利があり、全ての人はそれを目指すべきだが、実際には「虫」がいる。という認識です。
私は別にこの歴史的に裏づけのある考え方をわざわざ差別的だというつもりはありません。読んでいて気になったのは、暗黙裡に含意されている虫と人を分ける基準です。それは言ってしまえば、人格ということになるでしょう。そして、この基準がメイド姉が交渉を得意ではないという理由でもあります。
この物語のおいて交渉と言われたとき、最も基本に置かれているのは経済上の交渉です。市場において売り買いに参加するプレイヤーは、その門地や性別や性格に関わらず、ただ損益によって測られる存在だと考えられます。つまり、ここでは人格というような基準が入り込む余地はありません。人間はもっと根源的なところまで還元されたものと観念されるからです。

王弟元帥「我の――我のっ。
 我の何を信じるというのだとっ」

冬寂王「能力だろう?」

聖王国将官「それは……」

貴族子弟「能力であれば一級品なのは判りますからね。
 実際容赦のない攻撃ですよ、本当に」

メイド姉「そうですか? 私は人柄も加味しましたよ?」

それにも関わらず、交渉に人格を持ち込んでしまう点が、メイド姉自身も自覚している彼女の限界なのです。この限界は私が思うに、彼女が自分の考えと経験を完璧に切り離せないことに起因しています。

メイド姉「……っく。……むしは、だめ。足で、手で……。
 這ってでも……。だって、止まっちゃだめだから……」

と旅の途上でも苦しみもがいていた彼女は、王弟元帥との会話においても、プラスにならないと知りながら

メイド姉「わたしは冬の国に生まれた貧しくてみすぼらしい農奴の娘」

という語りを入れざるえない。何故ならば、メイド姉の考えは自身の経験を排除しては絶対に成立しえないような考えだからです。彼女には世界を経済学を通して自分から切り離す魔王のような視点は存在せず、普遍へと至る道がどうしようもなく閉ざされている。
これはメイド姉が最初の「叫び」の時点で背負いこんでしまった限界です。「魔王」の姿を借りながら、「農民」に向かって言葉を発するメイド姉というビジュアルが端的に指し示すように、あの瞬間に彼女の求められていたのは、「近代的人間観」と「農村的共同体」を結びつける考えでした。その求めに応じるのは実に容易いことです。何故ならば、その瞬間の彼女自身の状態こそが、その答えにそのものだったからです。この経験に拠った答えに縛られている限り、彼女は本当の意味で抽象的な理論をくみ上げることが出来ないでしょう。
だから彼女は、全ての人は「人間」として生きる権利を持つという原則と、全ての人が「人間」であれるわけではないという現実の間を、具体的な人格をモデル化することよって架橋してしまう。それはときに「メイド姉」であり、ときに「魔王」や「勇者」という形を取るでしょう。これらのモデルはメイド姉から切り離された「近代的人間観」を装いながら、裏で彼女の経験した「農村的共同体」とつながっている。
この考えを長所の両取りと見るか、中途半端と見るかは人によると思いますが、私としては彼女の顛末がそれを象徴している気がします。
みんな魔王みたいになれば正解って訳じゃないよねって話か。加筆前よりはまとまった。