アリス・イン・ワンダーランド

二週間以上のご無沙汰。インプットだけはしてるので、今月も四回の更新を目標にしたいところ。
この作品はティム・バートンの最新作にして、かのアリスの二回目のワンダーランドへの旅路を描くファンタジー映画です。正直な感想を述べると、エンドロールの途中までは退屈な映画だったなと思っていました。
3Dに対応していない映画館で鑑賞したため、3D用を意識して作られたシーンにのめり込めなかったという理由はあるにしても、不思議の国の登場人物たちがどうにも既存のイメージに縛られていて、鬼才ティム・バートンの描くアリスを見たかった身としては、肩透かしを食らった感は否めなかったです。トランプの兵隊と帽子屋のダンスは印象深かったのですが、ジャバウォックはデザインからして目を覆わんばかりだと言わざるを得ません。*1
しかしながら、この物語の中心はそんなところには無いと考えるべきなのでしょう。実際のところ「不思議の国」より「鏡の国」におけるモチーフがこの映画の主題になっている。それはつまり「アリスにとってのワンダーランドとは何であるのか?」という問いかけです。
物語の冒頭において少女時代のアリスは不思議の国を思わせる悪夢について語ります。次いで、それから十三年を経たアリスの口から、その夢が継続していることが示唆されます。この時点において、不思議の国の記憶が現実であるのか夢であるのかは判断できない事柄です。
中盤においてアリスは忘却していた少女時代の不思議の国の記憶を思い出します。にも関わらず、不思議の国から帰った彼女は現実にいる双子とディーとダムの類似性を口にし、幻想にひたる老嬢に医者に行けという極めて現実的な忠告を与えます。
そして最後には、ヘイミッシュ夫人としてアリスの名を捨てることを拒み、ワンダー号にのって未知の土地への航海に出ながらも、不思議の国の登場人物の名を呟きます。
さてアリスにとって二度目のワンダーランドとは一体何だったのでしょうか。ここで可能な解釈は現実か夢かという単純な二択には還元されません。全てが現実であるのならアリスの言動に説明がつかない部分が生じますし、全てが夢であるとすれば私たちはアリス・キングスレーの虚構性そのものに目を向けざるえなくなるでしょう。アリスの見る夢、虚構の見る夢とは何か。私には答えることが出来ません。
その上、一度アリスの虚構性に気が付いてしまえば、そうであるが故に作中においての不思議の国の真実味は増してしまいます。そのような錯綜した構図の中で、ワンダーランドは決して言明できない何かへ変じていきます。
思うに、ティム・バートンが意図したのは現実/虚構という区分を無効化することです。物語はどこまでも現実の反映に過ぎず、現実は物語を模すように存在する。それは時に希望であり、時にどうしようもない絶望でもあります。私たちに出来るのは、それらの上で気狂いのように踊り生きることぐらいなのかもしれない。エンドロールを身ながら考えたのは、そんなことでした。どうも3Dで見たら、チェシャ猫とかいい感じらしいので、見るなら3Dの方がいいと思う。

*1:3Dにおける制約があるのだろうとしても。