一回、twitterの発言をさらすだけの更新に挑戦してみたかったので、ズルとも言いますが。
権威をバックに自説を展開する某氏。もちろん原本を確認しての発言ではない。
| katu_peke | 円堂都司昭が書いてたけど、新本格における「人間が書けていない」という批判は、別に間違ってはいないが、著者たちがミステリーに惹かれたのは、登場人物が同時に事件を解決するための情報でもあるといった両義的なあり方なのだ。とか書いてて、新本格、清涼院、西尾ら辺を再構築するコレかなと思った | link |
| katu_peke | まあ、初期の清涼院は笠井理論の反対解釈みたいなものなので、本来は両義的なあり方から、情報ではなく実存を救い上げることを志向していたとも言えるんだけど。 | link |
さらに調子乗り、気分よく言い放していることがうかがえる。
| katu_peke | 笠井さんもセカイ系に鞍替えしたことだし、新たな勝者の歴史を作り上げていけばいいとは思う。せっかく脱退したのに、特集が大量死理論の是非とかお前ら頭(ry | link |
| katu_peke | 笠井理論のアンチとしての初期清涼院って当初から言われたのに、商業レベルで書かれてるところほとんど見ないので、そろそろ誰か書いて欲しいところだ。 | link |
更に調子乗る某氏は、この後の惨劇を知る由もない。
| katu_peke | まあ、今更書いても誰も注目してくれないだろうから、やっぱ西尾まで続く流れの創造でしょうね。可能性からいくと、蔓葉さんあたりだろうが、ボクあの人の書いたものあんまり感心しないんだよなぁ。 | link |
名前を出していた
蔓葉信博さんにRTされ尻尾を巻いて布団に逃げる。
次の日、オナニーの最中に母親に部屋に入ってこられた中学生のような風情の某氏の姿が──
| katu_peke | 笠井→清涼院というのは、読めば分かる程度に自明であっても、清涼院→西尾というのは、推薦文の帯とかトリビュートとか商業的に存在しているものが中心で、その連続性よりも、差異を抽出していった方が意味がある。 | link |
| katu_peke | それでも清涼院─西尾というラインを想定してみたのは、そうでもしないと受けないだろうというエセ業界人視点であって、そんなしょうもない呟きに実際に仕事をしている蔓葉さんの名前を出すのは、失礼であった。そこは反省したい。 | link |
気を取り直して『カーニバル』シリーズについて
| katu_peke | 『カーニバル』の解説を読む限り、西尾が優れた清涼院作品の読者であることは予測が出来るのだが、やっぱ世代の差が大きい。寵児と先駆者の差とでもいうか。『刀語』と『トップラン』あたりを読み比べてみるのも面白いのかな。 | link |
| katu_peke | いや、『カーニバル』は清涼院流水による清涼院流水の再解釈であって、流水はそこで決定的に破綻してしまったのだとボクは思ってますね。その後に行われた現実のニュースの挿入や、月一での『トップラン』の出版とかは、むしろ現実との参照項を求めて足掻いているようにボクには感じられました。 | link |
| katu_peke | 端的に言えば、陰謀史観(セカイ系)的想像力に負けたのだと思います。彩紋家における総代の推理の秘密などが示唆しているように、長い迷走を経ても、流水は探偵小説的想像力を復活させることが出来なかったのではないでしょうか。 | link |
ここら辺から
西尾維新の話
| katu_peke | そこら辺が、四神一鏡とか平然やってしまう西尾との圧倒的な差かな。先駆者として自分の想像力と向き合わなければいけなかった人と、時代の空気として内面化出来た人の差。 | link |
| katu_peke | 事象としての「死」の装飾と流通とか、「死」の不可逆性に対する疑念とか、ミステリーにおける死生観で響きあったんじゃないかなーと少し思ってるのだが、共通点ありきで考えた感じはしないでもない。 | link |
| katu_peke | U30に書いてある化物語における固有名詞の執拗なまでの連呼(阿良々木くん、阿良々木先輩、あらららぎさんetc)は彼らの「自己完結」性を際立てせるための処置だ。という指摘はたぶん正鵠を射っているのだが、そこから導出される結論に全然付いていけない・・・ | link |
| katu_peke | けど、ボクが理解するに西尾作品においては、登場人物の現存在そのものが問題にされている(という)指摘だから間違ってはいないのかな。しかし、そうであればなおさら、西尾作品における西尾維新のポジションについて語らないのは片手落ちだと思うのだが。 | link |