涼宮ハルヒの消失

劇場版 涼宮ハルヒの消失 オリジナルサウンドトラック

劇場版 涼宮ハルヒの消失 オリジナルサウンドトラック

私はラストで感極まってマジ泣きしてしまったので、偉そうなことを言える立場でもないのですが、ちょっと書きます。
見た人には分かると思いますが、長門のための映画です。原作の中心はキョンの選択でしたが、この作品では長門の存在そのものが問題になっていると言っていい。
見方によっては、長門の失恋を描いた物語であると取ることも出来るのですが、私自身は彼女の救済の物語だと思いました。
この映画の中で、長門は世界そのものを改変します。そして、改変された世界の中で、彼女はどこにでもいる気弱な女生徒に過ぎません。それは何故でしょうか?
もし長門キョンに選んでもらいと単純に望んでいるなら、それは自分自身でなければ何の意味もないはずです。それにも関わらず、彼女は自分そのものの属性まで変更してしまう。これは、長門キョンに向けた問いかけが、もっと根源的な存在への問いかけであるからだと私は思います。
作中で、古泉はキョンに対して「うらやましい。」と独白します。それは改変前の世界においてハルヒキョンを選んだことが、何の属性にも説明することが出来ない事象だからです。「萌えキャラ」でも「謎の転校生」でも何でもない存在、ハルヒキョンを見初めたのは、キョンキョンであるという理由に過ぎない。何の理由もなく、決して説明することが出来ない彼が彼であるから良いのだ。という感覚、これこそが時に恋は盲目と称される恋愛の本質的な要素です。
そして、長門が求めたのも、この本質でした。「宇宙人」でも「万能の救い手」でもない自分。ありのままの長門有希という存在、それをキョンが必要としてくれるのか。という問い。これこそが、長門が世界改変を行ってまでキョンに求めた回答でした。
そして、病院の屋上でキョンはその答えを出します。あのシーンで語られるのは長門有希という存在に対しての何の留保もない肯定です。長門有希長門有希であるだけで、例えキョンに対して何の益ももたらすことがなくても、存在そのものが言祝がれる。
私はそれが「うらやましくて」しょうがなかった。私の生きている世界では、それはありえない出来事だから。美しい。例え、それが物語の中にしか存在しえないとしても、この奇跡の素晴らしさが損なわれることはない。
良い映画でした。お勧め。