刀語

刀語 第一話 絶刀・鉋 (講談社BOX)

刀語 第一話 絶刀・鉋 (講談社BOX)

更新しろ。という内側からの圧力に負けたので、そぞろに書きます。
西尾維新が自分の手の内の一部を隠すことなく見せちゃうよ、みたいな本であり、率直に言って物語としては大して面白くはなかった。
ここで明かされた手の内というのは、作者がどれほど物語を管理運営しているか、という示されてみれば当たり前の事実ではあるのだが、西尾維新においては、この事実が作中において宿命的に作用している。
具体的に言うなら、11巻目においてヒロインが撃たれ12巻で死亡するのだが、作中においては敵すらも、この出来事を喜ばしいものと捉えてはいない。にも関わらず、彼女は死んでしまう。何故だろうか?
この一連の流れは物語内の必然性よりも、むしろ6巻における掛け合いを再現するために存在しているように思える。ヒロインの死亡という愁嘆場において、一語一句違えない掛け合いの再現をして誰が得をするのか、と言えば西尾維新が得をするわけだ。
作中において登場人物の一人である鶴賀迷彩は

そうするようにそうだったというだけのことだ。

と自らの半生を省みている。この認識は西尾作品において一つの真理として存在する。
もちろん、この真理に辿りついたことで、得るものも失うものも存在はしない。主人公の二人がこの物語が12ヶ月で完結することを知っているかのように話せるのは、西尾作品のセカイ観がそれによって一ミリも揺らがないからに他ならないのだ。
第十二話の序章で誰とも知らぬ人が語る「すべてがわたしの操作下・制御下にあったわけではないのだ。」という言葉の意味すること。*1西尾維新において何が操作下・制御下であれば事足りるのか。それを『刀語』は恵みを垂れるように読者に教えてくれる。
この物語の登場人物たちは、皆して錆白兵のように哀れであり、そして幸せでもある。私の感想はこれに尽きる。
歴史が騙るのが「中性な事実」であるなら、嘘歴史が騙るのは「中性な物語」なのではないか。その中性を疑うことから始めなくてはいけない。そんなことを考えながら、この文章を閉じたい。


しばらく更新しなかったら、記事がポエム化した。今月中にもう一回更新したい。

*1:あるいは、終焉の地である尾張に関する自信満々の諧謔でもいい