『沙耶の唄』について少々

沙耶の唄

沙耶の唄

円城塔について何か書こうと数日悶々として挫折したので、エロゲの話で更新。なんとか年内には書きたいところ。
さて先日、『沙耶の唄』をやり直したら、プレイ後に印象に残った箇所があったので忘れない内に書いておく。*1
このエロゲは全クリまで十時間かからない短編で、選択肢が発生する場面は二回しかない。しかし、この選択肢は両方とも理に適っており、特に二回目の選択肢は、シナリオライター虚淵玄の面目躍如と言ったところではないだろうか。
私が思うに、選択肢には大きく二つの意義が存在する。それは「選択」と「分岐」である。前者は文字通りに主人公の選択を重視する選択肢だ。言い換えるなら、主人公や時にはメタ的にプレイヤーの動機が重要視される「選択」とでも言うのだろうか。『沙耶の唄』で言えば、一つ目の主人公がヒロイン沙耶の側に留まるかどうかを決める選択肢がそれに当る。
後者はつまり作品上の要請によって存在している選択肢である。例えば、ヒロインのルートを確定させるためにだけ存在するような班分けなどがそれに該当する。『沙耶の唄』では、二つ目の主人公の友人である戸尾耕司に発生する選択肢がこの範疇に入る。プレイした人なら分かると思うが、この選択肢がもたらす結果は、物語の根底的な部分に全くと言っていいほど関係しない。
もちろん、一つの選択肢の中に両方の意義が込められている場合も多い。私も本来的にはそういう選択肢を好むタイプの人間だが、この二つ目の選択肢は例外だ。
二つ目の選択肢の意味するところは三つある。
まずは隔絶。選択の行為者を友人に移すことにより、主人公が一つ目の選択肢で全てを選び終えたことが強調される。耕司の選択はもはや主人公には届かない。
次に捻れ。耕司は賢明に振舞ったために向こう側に飛び越えてしまい、逆に向こう見ずに突き進んだときにはギリギリで向こう側に行かずにすむのだ。
最後は理不尽。耕司はどっちを選んでも、悲惨な目に合うという結果は変わることはない。
この三つが語るものは、ある意味で分かりきったことだ。この選択のむなしさ、襲い掛かる理不尽こそ、ラヴクラフトの書き記した物語の本質である。二つ目の選択肢はまさにそのコズミックホラーを体現していると思う。『沙耶の唄』がクトゥルー神話に連なる物語だからこそ、この選択肢は存在する必要があったのではないだろうか。
考えつくされた選択肢はそれだけで十分に価値がある。『沙耶の唄』を終えて、脳裏の過ぎったのはそんな言葉だった。
久々に虚淵玄分を堪能したので書いた。特に後悔はしていない。良作です。

*1:調べたところ初プレイのときも、自分は同じ場所を誉めていた。