川上稔作品における時間観について

というわけで「川上稔」でググって100位にくるブログを目指して、もさもさと書こうかと思います。私はこのブログの別の記事で、川上稔の作品世界には一方的に前へと進行する時間と循環して繰り返す時間というものが存在していると書きました。私は、この二つの時間というのは対等な関係にあると考えていたのですが、もしかしたら違うのかもしれないですね。
何を根拠にそういうかと言えば、川上作品における一神教の扱いがあまり芳しくないんですよ。『境界線上のホライゾン』に出てくる教皇もそうだし『終わりのクロニクル』のハジも、そういう意味ではあまり優遇された存在ではない。
それはもしかすると、作者が一方進行の時間というものに否定的な評価を下しているからかもしれません。ユダヤ教をその元にする一神教群において、時間というものは終末のおける救済へと向かって流れるものとして把握されます。この時間観の上に西洋的な進歩史観というものは成立しているわけです。
この反対をいくのが、一定の周期で世界の再生と滅亡が繰り返されるという循環する時間観だとした場合。川上稔が一通の時間を否定して循環する時間に価値を見出していると考えるのは、例えば終わクロにおけるノアの処理などを考えても、無理なことではない気がします。
直進する時間の中の一点ではなく、過去から未来へと循環する時間を貫く一本の線のように生きるということ。そういう登場人物たちを通して、作者が意図しているものは何なのでしょうか。
まあ、一つの体系として完成していないものを考察するのは、おのずと限界があるものなので適当なところで切り上げておきます。また、まとまりに欠いた反省。