コードギアスの総括らしきもの。

私がR2を最後まで見て率直に思ったことは、ルルーシュは結局のところ行為の責任の大きさを真正面から捉えることが出来なかったのだな、ということだった。

その組織に、システムに入れない人はどうするの。それは違うってどうやって言えばいいのよ。

カレンの口から示されるように、全ての問題が平和主義で解決できると、そう信じられるのは現実を無視した理想主義者だけだ。暴力で世界は変えられる、それが私達に提示されている退屈な現実にすぎない。だから「撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだ」という言葉も悪くないだろう。世界は不条理と不平等に満ち、時に人は自らや大切な人のために行動しなければいけならない。その行動への分水嶺として、上記の言葉は的確であるとすら私は考えている。
ならば、物語の最後でルルーシュが見せた死こそ、彼が自分の行為を受け入れた証拠ではないか。という意見もあるだろうが、私はそれには賛同しない。
何故なら、分水嶺を越えてしまった人間には、その言葉はもはや何の意味もなさないからだ。一度自らの手を離れた行為は、行為者の意図を離れ、でたらめに因果を紡いでいく。アバンタイトルの一節にこうある。

だが、世界という塊は、個人の意思とは無関係に、ただ流れ行くだけ。

自らの行為の責任を全て背負える人間などいるのだろうか。別の言い方をするなら、シャーリーの母に向かって、あなたの夫と娘は世界平和のために死にました。とルルーシュが話すことに正当性がありえるのか。ルルーシュは行動によって、暗黙の内に両者に是と答えていると私は思う。
ルルーシュは死の最後まで、自らの行為の結果が、自らの身に余るということを認められなかった。だからルルーシュは「撃っていいのは撃たれる覚悟がある奴だけだ」という奪う側の言葉にすがりつく、もはや彼は奪った側に立っているというのに。

俺は、世界を壊し…世界を、造る。

こう嘯く彼の物語は、きっと喜劇だ。妹一人幸せに出来ないくせに、世界をままに出来ると思い上がった滑稽な男の喜劇なのだ。