終わクロの総括に変えて。

終わりのクロニクル』について何か書こうと思ってたんですけど、結論から言うと書けなかった。理由は簡単で、引かれると思うんですが、私はこの作品をこの数ヶ月で六回読んだんですね。書けないから読みを繰り返してたら、もう作品との距離感がメチャクチャで、そこから客観性のあるものを取り出すことが一年くらいは出来ないだろうと自分の感覚として分かる。
まあ、この作品を通して自分のライトノベル読みとしての総括もしようとか、多分に重心が前の方に来てたので、当然の結果なのかもしれません。修行が足りないですね。
代わりに、自分が思う作品のテーマについて徒然と書いておきます。
川上稔が『終わりのクロニクル』で扱ったテーマは「戦後」だ。このテーマの意味することは、戦後復興の困難さとか、勝者と敗者の間に存在する微妙な関係なのかと問われれば、その問いを肯定することは私には出来ない。
上のような問題が、作品中で多数提起されるにも関わらず、この作品で主題にされるのは、ほとんど個人のあり方に関するものだと言っていい。
こういう構造をセカイ系というのであれば、『終わりのクロニクル』はセカイ系に属するだろう。
セカイ系の作品群の主人公が自らの有する断裂故に無制限の未来に向かって足掻くのと同じように、佐山御言達はその断裂故に深遠たる過去へと想いを飛ばす。この両者の基礎となる断裂こそ、川上稔が作品で問題にしている「戦後」そのものではないかと私は思うのだ。
作者は、この断裂を歴史という側面から捉えている。それは玉音と共に断ち切られなかった戦争であり、空襲あるいは大震災からの復興によって立ち消えた廃墟の痕跡として作品の中に現れる。
川上稔は、その作品中に何度か循環する戦争というモチーフを取り上げているのだが、これは前者と響き合うものだろう。戦争とは何時に終るものなのか。それは歴史の一点にピリオドを打てば、その瞬間に全てが終るものなのだろうか。日本はあのラジオ放送と一緒に、本当に新しい何かを刻み始めたのだろうか。考えなければいけないだろう、私たちが「戦後」の日本に生きている限りは。
かつて東京が焼け野原になった時があったらしいと私達は知っている。だが私は少なくとも東京で生活していて、ふと自分の上にB15戦闘機が飛んでくることを考えたりはしない。何故か。東京にはモニュメントを除けば、かつての空襲を思わせるものなど存在しないからだ。廃墟を廃墟にして作り上げた大都会の中で、私たちは容易く自らの来歴を見失ってしまう。
こういう状況を自覚しながら、今と正しく接する為に、過去と向き合うべきだという出張を何度も繰り返すのが、『終わりのクロニクル』という作品だと個人的には思ってたりはします。
まあ、「戦後」を問題にし過ぎてるから「戦後の問題」の処理が疎かになってるとか、ヒロインの立ち位置が主人公の押しが強すぎるせいで分かりにくいとか、みんな覚悟完了し過ぎとか、物語上ちょっとなぁ。と思う場所もあるにはあるのですが、私は好きです。最後のこういうのを保身って言うだよなぁ。と更に保身をかけてみるテスト。作品総括「彼らは何故に前に進まなければいけないのか?」をきっとそのうちたぶん書くと思うような気がする。