セカイ系について語る難しさ(3)

読み返して記事が面白くないのと、なんか自分が書こうとしてることの大枠がゼロ世代の想像力に既に書かれているんじゃなかろうかという疑念があるので、今回でパッと終らせます。
決断主義という言葉の厳密な意味は知らないのですが、そこに匂う微かなナチの香りが意識的なものだとしたら、たぶんそうだと思うけど、そこで意識されているのは大衆というもののはずです。まあ別に大衆文化なんて散々言われてきたことだし、、耳にタコできるよって話ではあるわけですけど。
けどそれを知ったところで、私たちは大衆の中で生きているし、その中から一歩だって出ることなどできないでしょう。セカイというのは、そういう中でだけ響き合うような大衆の発想であるのだろうと私も思います。
セカイ系というのは、間にある「社会」をすっ飛ばして個人と世界を直結する発想だと書かれてたりしますが、であるなら「社会」をすっ飛ばして直結できる世界こそが、セカイなのだと私は考えるのですが、皆さんどうでしょうか。
現実に私が社会に出る頃には、そういう「社会」は既に崩壊しかけていたような気がします。よく言われることですが、日本における「社会」の大部分を占めていたのは、終身雇用制の会社組織なんですよね。あとはヨーロッパでは選挙ということになるんでしょうが、キムタク総理は一票で政治が変わることを信じろと月9で仰ったそうですですけど、そんなこと月9で言われてる時点で笑い話なわけですよ。まあ例を上げれば切りがないですが、現実の「社会」をあまり信じられない層は私を含めて少なくはないはずです。
そういう層がやはり、何歳になってもセカイ系が好きな人たちの層と被ると思うんだよね。例えば、「学校」っていのうは、同年齢が沢山いるというこで均一化されたイメージと、本質的には自分と関係ない場所だから自分との接点を結びにくいイメージがある。*1そういうのが、「社会」をもたないで大衆の中を生きる人間と響き合うんだと思います。
まあ、ネットにある決断主義についての意見とか補足を見る限り、極論をわざと述べた感じがして、あんまり好きではないんですけど。
あれはつまり、セカイの中に生きるということは、自分の人生は全く意味づけらず、死は消滅に過ぎないということなので、それを自覚した人間は、逆説的に全ての制約から自由になって*2「俺には全てが許されている」とか言うに違い無い。夜神月とか典型だよ。ということだと思うんですが、デスノはそういう作品ではなかったし、ギアスも倫理的な側面が実際には強い作品になっている。彼らは世界の価値を信じて行動してるんですよね。*3もう自分の周りにはセカイしかないと思っても、それでも何処かに世界があるという信仰を捨てられないというか、まだそこまで末期に至ってないというか。セカイ系っていうは、そういう微妙な発想を根源にしてる気がします。
こういうのって、自分が使いこなせないような難しい言葉で考えると、加速された思考の快楽でいい気分になれるけど、平素な思考で書くと実に楽しくない。やっぱ世界喪失とか使っとくべきだったかなぁ。

*1:自分だけかもしれないけど。

*2:いかなる行動も死ともに消え去るなら、何故にためらう必要があろうか。

*3:ナナリーを殺したら、ルルーシュは言うかもしれない、言って欲しい気もする。我ながらマゾだなぁ。