セカイ系について語る難しさ(2)。

自分で見ても、前回の記事と前々回の記事のつながりが分かりにくいと思ったので、補足をかねて。
結局、私はセカイ系という観念に平均よりかなり多くの思考リソースを割いてる自覚があるので、たぶん自分が自分に分かるように記事を書いても、伝わらない気がしたんですよね。*1それで外堀から埋めていこうかなと思ったんですが、方向性に欠いて分かりにくい記事になってしまいました。
私が一番の問題にしたいのは、セカイ系を支える発想の源泉なんですよ。
例えば新海誠の『秒速5センチメートル』の中で第二部にセカイ系を思わせる表現が集中しているわけですけど、その時に舞台はなんでああいう場所である必要があるんだろうか。新海誠は何を求めて主人公をあそこに追いやり、受け手である私たちに何を感じ取らせたいのか。
そういうことを考えたときに、セカイを召喚する「場」というアイディアが有効だと思うんですね。それで「世界」を東京、「セカイ」を種子島として比較すれば、何か出るかもしれないし、他のセカイ系と言われる作品群にも同じようなことをすれば、セカイ系表現に共通するようなエッセンスを抽出できるかもしれない。
けどこのネタの面白さは、召喚の理屈を知ってないと半減する気がするんですよね。そして、その理屈にあたるのが発想の源泉なわけです。
だからチマチマと、世界とセカイの話を展開していく予定。

*1:自分理論なんだから当たり前の話ですが。