眠れないので徒然と

根本的な問題として、再演可能な運命は運命足りえるのか。結局、どれほど未来が白紙だと書かれても、この後には都市シリーズ群がある、それをどう考えるべきか。
雑多に見える情報群は基本的に白紙の未来とのコントラストを意識して配置されているが故に、雑多なのだと考えるのは信者目線過ぎるか。全てを零落させながら空白たる未来へ向けて混沌の海から組織される言葉の塔というイメージが個人的にはとても気にいってはいるが、イメージで作品を語るのは居酒屋で十分ではある。文章で記す以上は多少は厳密さを追求したい。
どこにでもいる普通の存在が選ばれる、だが役割は特別である詐術。
明らか特別でユニークな存在が選ばれる、だが役割はユニークではないという罠。
この二つは同じ発想に属するのか。運命を直接に肯定はしない。対立構造、彼らが選ばれてもよかった。
「戦後」の問題。過去は常に今を規定する。過去と向き合うことによってのみ、新鮮な現在を生成できるという提起。脱却は絵空事なのか。そうだろう日本を見れば明白である。米軍。
だが過去に固執するのは否定される。廃墟は復興される。それは必然であって、廃墟の廃墟として復興を見る視点の保持。時を固定するような、巴里のようなものは違う。
廃墟と復興のイメージの強化としての地震。それ以上のものがあるのか。言葉遊びは別にして。
打ち捨てられたナショナルな問題。上記の考えでも処理できるが、本質的にはページ不足か技量不足。あるいは両方。
国歌に代表される制度としての国家。きよしこの夜はそれを包括する。しかし、何が平等の担保足りえるのか。過去に誠実たること、その上で主体として現在を引き受けること。
思い付きで書き連ねたら、ロマン主義じゃなくてニーチェなのかなぁ。永劫回帰
力点変えて読み直すか・・・。