終わりのクロニクル①

終わりのクロニクル 1(上) 電撃文庫 AHEADシリーズ

終わりのクロニクル 1(上) 電撃文庫 AHEADシリーズ

A:というわけで、ググルさんで「川上稔」検索百位に入るという目標を目指して、作品考察など始めてみましょうか。

B:志の低さに我ながら涙目ですが、読んでて最初に引っ掛かるところと言えば、目次でありプロット表という一種のメタ構造かな?

A:それは全編を通して同じだから、考察するなら最後にまとめてしたいところですね。一つの考え方としては、AHEADには川上稔はいないわけだから、別の記録者が設定されているということなのかも。

B:CityならM・シュリアーがAHEADなら新庄が書き手として仮構されていると。

A:別に根拠は無いけど、FORTHに川上稔がいるなら、そういうこともありえるのかな。妄想を猛々しくすれば、書き手がいなくなれば世界も無くなるというロジックもありえないではないでしょう。

B:そこまでいくと本当にただの妄想だよね。信者乙。始まりに物語と直接関係しない人物の視線から始まるという意味では舞台を含めて、OSAKAを多少は意識していると思いますか?

A:否定はできないけど、注目すべき点はそこじゃなく時間軸だと思うんだよね。OSAKAだって時間軸そのものは一直線だったし。本編ではバクというギミックを使ってまで、一定の時間軸にこだわってるのに、序章だけ浮いてるでしょ。クロニクルというタイトルに対する一種の出オチですよ。

B:年代記的な時間観に対する疑念の表明だと。というわりには、川上稔の世界観そのものは実に直線的だと思うんですが。

A:自覚してるからこそ、あえてという考え方もありうると思うんですが、これも全体を通しての話だから。

B:それでは本編の設定の方に入っていくと、主人公の基本スペックが高すぎる様に見えますけど、これは思春期特有の全能感の比喩か何かなんでしょうか?

A:単純に著者の中で、主人公を演じるのに必要な能力がアレだったということなんだと思うな。確かに初期設定は、日常と非日常があって、その間を学園が橋渡しするみたいな形してるから、学園異能と呼ばれるジャンルに類似してるけど、作品の焦点は違う気がする。

B:というと?

A:上巻の一章の頭に「ーー私達にとって、自分探しや癒しなど幻想に過ぎない。」って言葉が全てを表してると思うんだけど、この物語は主人公の自己確立がサブテーマにすらなってないんだよ。

B:それは極論でしょ。佐山御言は「本気」になれるかどうかで悩んでるわけだし。基本的には物語の展開と自分のルーツ探しが重なっていく典型的なストーリーに見えるけどな。

A:そこら辺もおいおい詳しく詰めていく部分だよね。この主人公はあまりに自分のロールに自覚的過ぎると私は思いますけど。逆に何か引っ掛かったことはありますか?

B:神州世界対応論。米軍。概念戦争。あたりかな。

A;神州世界対応論は『未来のうてな』を思い出したけど、適当に流せばいいんじゃないの。日本で物語を進める必然性を出す為のギミックでしょ。日本が帝国ですらないのはどうかと思いますけどね。米軍は別の巻で出てくるから後回し。概念戦争は、当然と言えば当然だけど、終わクロを読み解く上での最も重要な言葉じゃないですか。

B:やっぱり、君の考えとしては、終らなかった第二次世界大戦ってことなんですか?

A:本編でも第二次大戦後に引き続いてという形になってるしね。けどこれは、巴里が封鎖されたまま第二次大戦を繰り返すのと本質的には同じ発想なんだと思う。戦争っていうのは、年代記みたいにある一点を境に急に終了するものではないという発想。日常の中に潜伏しながら絶えず現在を規定し続けるんじゃないかという疑念が、川上稔の創作の一部分をなしてるんだと私は思います。

B:あとがきにも多少それらしいことが書いてあることは書いてあるけど、慎重に判断しないといけない種類の読み方だよね。

A:自戒自戒と。内容の方に入りますが、ヒロインの話題は一巻では扱いきれないからパスするとして、まあ最初だから肩慣らしみたいな、そんな感じですか。

B:完璧に信者目線ですね、どうもお疲れ様です。

A:いや、支配される側のアイデンティティとしての「誇り」とか、反体制側でも一本化されないジレンマとそれに絡んだ世代の格差とか、手堅く物語の中に入ってると思うんですけど。

B:けど結局、ジークフリードとブレンヒルトの関係の話と八百長交渉と敗北覚悟の決戦で丸く収まっちゃうからさ。

A:1−Gで残り一人の「長寿の娘」に感情面を担当させるのは確かに多少ズルさがあるのは認める。けど残り二つは、主人公が圧倒的に体制側にいるから仕方ないと思うんだ。

B:百歩譲ってその主張を認めても、その体制側にいることに対する悩みが主人公に存在しないのはどうよ。体制側が圧倒的なわけだしさ。

A:それは自己確立の問題と何が違うのかと。役割が個人より先行してるのは、川上稔作品の特徴の一つだから。そこら辺が今回も、作品全体を読み解く鍵かとは思いますね。ボカされてるんだから、圧倒的なことには目をつむるのが信者クオリティー。後でフォローされるわけだし。最後に何かある?

B:書かれたことが現実になるという概念条文が、文章で表現される小説世界との関係で実験的っぽい。遊戯的のほうが正しいのかもしれないけど。

A:とりあえず、②に続く予定。