『閉鎖都市 巴里』に関する一考と来年の予定

色々あって、川上稔の作家性に関する話は来年に持ち越しですが、基本的な骨子だけ少し発表して、巴里の話題に移ろうかと思います。
AHEADシリーズにおける「9・11」の影響をどう見るか、という今年の夏の友人との談話が根本にはあるんですよね。
シリーズが完結した時からしばらくは、その手の意見にはあまり賛同しなかったんだけど、やっぱり今考えると少なくとも否定は出来ないのかなとは思います。
けど賛同しなかったのにも理由があって、『終わりのクロニクル』は戦争後の調停という明白と言えば明白なテーマを取り扱ってはいますが、そのテーマは基本的に都市シリーズや全体の世界観が構成してきたものと、同根な気がするんですよ。
私見ですが、都市シリーズで日本が東西に分割されたり、大障壁の時代という概念があったりする背景には冷戦の存在が無視出来ないと思うし、もっと切り込めば川上稔の年齢を考えるに、ベルリンの壁の崩壊が象徴的な事件として頭に残ってるんじゃないかと思う。
日本という国に生きていれば、憲法、米軍、歴史etc 戦争から延々と続くものを意識するのに事欠かない。終戦の日に戦争の全てが終ったわけではないし、過去にありながら現在を規定し続けるものに囚われながら、人は今を生きねばならないわけです。
たぶん川上稔は、そういう射程で物事を見てるし、だから巴里や伯林ではああいう形で大戦が表現される。そういう意味で、一貫した作家性を証明できるような気がしたので、力が足りれば来年書きます。

さて、巴里の話題に入りましょう。
巴里の上巻は全ての川上稔作品を見渡しても、最高密度のギミックと構成を誇る一品ですが、その分だけ初心者に取っ付き難いのも確か。
とは言え、逆に作品全般に精通していると、「隻腕の男」とか「翼を持つ槍使いの女」というギミックに引っ張られて、作品の見通しが付けにくいような気もします。
都市シリーズとしての基本ラインは、フィリップ(隻腕)と、ベレッタ(黒竜を打ち、凌駕紋章)が、G機関の飛行機(竜の名)を倒しているので、問題無く満たされているわけですが、そうであるからこそ、その最後の戦いを傍観しているベルゲの存在が把握しづらいと思うんですよ。
最初は予言との誤差という仕掛けの中に取り込まれる部分かとも考えたんですが、どうも巴里では破滅における主題が二つに分裂していると捉えた方が、他の作品との繋がりも良い気がします。
つまり都市シリーズにおける破滅の回避には、竜退治という形式と、DT風に言うなら諦めの解消という内容の両方が必要だと考えるわけです。
川上作品では大体において、竜と諦めは同体によって象徴されることが多いのですが、巴里では分離される理由を妄想するとすれば、川上稔の想定する破滅というのは、過去と現在の衝突のようなものだからだと思います。
これは上で書いたことの言い直しですね。現在を規定する過去との対峙が、川上作品のメインテーマだということです。
ですから巴里のおいて対峙しているのは、封鎖された仏蘭西と現代であって、結界内には相当する対立軸が存在しにくい。*1そこでハインツ・ベルゲの傍観に意味が出てくる。
この問題に説明を付けようとすれば、ベルゲの物語上の役割への理解が欠かせません。ベルゲってドイツ人だから分かりにくいけど、巴里の閉鎖性の象徴を担ってるんですよ。
証拠は上巻の最後のベルゲの日記。ここで、それまで引っ張ってきた「白粉花」の花言葉が明らかになりますが、この構成はどう見ても、ラストで一押してるわけですよね。
内気つながりで、ベルゲの物語上の意味性が一気に明らかになる地味な名場面ではないでしょうか。
この閉鎖性であり内気さは、諦めの同義語と考えてもらえればいいと思います。バレッタとフィリップというメインラインの手によって打破されてしまう感情喪失機構は、巴里における予定調和を物語っていると言えるでしょう。
では第二ラウンドの意味はなんでしょう。失ったベルゲ何が残ってるかと言えば、A計画の関係者とドイツ軍人だということぐらいなわけです。
そうなって初めて、ロゼッタとベルゲという組み合わせに意味が生じてきます。
何故かと言えばロゼッタは、最も安全に己の情報を作り、秘め、そして発信できる結界によって成った情報を蓄え進化する都市である巴里を代表できる存在に最後の時点で成長しています。
つまり、最後の場面で展開されているのは、A計画の因縁の清算ともに、かつてドイツ軍に屈した巴里のリベンジマッチなわけです。諦めていたのは、巴里である以上、この二度押しには意味がある。
だから、現代人であるバレッタは戦闘に参加する資格を持たないし、戦闘の順番もロゼッタの勝利をして、巴里の開放に繋がっていく流れが順当なのではないでしょうか。

*1:G機関も前向きに自爆するしね。