森博嗣・西尾維新について思うこと

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

前に筒井康隆がBSアニメ夜話で「ゲームの様な本当の死というものが存在しない表現世界で、文学というものが成立するのか。」というような命題を提示していた。
それを聞いて率直に思ったのは、それは神話だろう。ということだった。
まあ、筒井康隆が言ってたのはシステム的な部分だったみたいだし、その後の発言を追ってるわけでも無いので真意は分からないけど、思考を遊ばせるには十分な言葉。
最初に浮かんだのは、森博嗣の『四季』だった。この小説は最初に冬まで読んだとき評価に困ったんだけど、改めて考えてみると、二つの物語世界をリンクさせるための小説なのだ。リンクさせた理由は、ネタバレなので伏せるが、その動機は森博嗣作品内で何度も語られた、生と死の不可逆性に対する意見と無関係ではないだろう。
別に森博嗣作品が神話だと言うつもりはない。ただ、時間操作のようなシステムを導入しないで本当の死を遠ざけるなら、その世界において「生」と「死」は相反する記号に過ぎなくなるだろう。そんな世界を語ろうとするとき、神話的というのは便利な表現ではあると思う。
この神話的傾向は、デビュー作を『すべてがFになる』のオマージュで始めた西尾維新戯言シリーズで一つの極致に達している様に見える。*1
作中で何度も繰り返される死者の声帯模写もさることながら、その象徴は想影真心だ。彼女の復活には意味がない。もちろん、哀川潤の当て馬として、西東天とぼくの戦いを代理するという役割があるにはある。
だが作中で自ら語るように、彼女には生き返る理由がない。存在と不在が等価だとでも言うように、物語の中に突如として出現するのだ。それこそが西尾維新が構築した世界の本質であり、森博嗣から受け継いだものに自分には思える。
「生」と「死」すら記号の海に沈み、全ての台詞が戯言の前に消え去るとき、そこの現出するものとは。と言えば文学的かもしれない。
いつか、個別にもう少し厳密な話を展開したいところ。神話というと、近頃はレヴィ=ストロースらしいですが、手元に揃えるには高い買い物だよなぁ。

*1:ちなみに『四季』より西尾維新のデビューの方が早い。これは否定材料と言うよりは、西尾維新森博嗣読みとして、高いレベルにあった事を証明してるのだと個人的には思ってる。