ライトノベルの話あれこれ

月末に向けて、防衛線を張り巡そうという試み。定義の話は個人的に興が乗らないので、どっちにしても今更だけど、文体論の話を少ししてみる。
元の議論そのものは、ライトノベルの文体は、想定された読者の読みやすいように表現が収束する傾向があるので、文学的な「読み」を用いても無駄であるという意見が、最終的に大半を占めた印象がある。*1詳しくは、ラノベ365日さんの記事が大体の意見を紹介してる。
実際のところ、自分はどんな種類の小説でも、文体というものを意識した読みを普段はしない人種だ。それでも、石田衣良の軽やかさ、三島由紀夫の優雅さ、飛浩隆の熱帯の香り、程度のものは感じるし、それが魅力の一部であることは否定しない。*2
だから、個人的にはライトノベルを、意識して文体から読むというスタンス自体は有効性を持ちうるはずだと考えている。何と言っても、ライトノベルは文章表現なのだから、そこに著者の個性が出ないはずが無い。最適化されても残るものは残るだろうしね。
まだまだ未開拓の分野なので、好きな作家にこの方向からアプローチすれば、そこには意外な掘り出し物が埋まってるかも知れないと思う。
その反面で、読み易く収束したとされた文章表現の眺めやり、何故この表現が読み易いとされるのかを考察するのも楽しそうではある。
それは、その表現を読みやすいと感じる私の思考方法と関係があるだろうし、あるいはもっと広い範囲と関係があるのかもしれないからだ。
あと先日紹介した限界小説書評でもやってるように、ライトノベルと現代詩とか、小説以外の文章表現との比較も必要だとは思う。一年に詩集を五冊も読まない人間が言うことじゃないけど。

*1:この文学的な「読み」が何を指してるのかが、最後まで明瞭としない所はあった気がする。たぶん、文体が著者の内面を表彰するという類の「読み」だと思うんだけど。

*2:まあ、個々人で何を感じるかの話ではある。