ライトノベルの読み方の話

本の読み方なんて千差万別、いちいち人にアレコレ言われることじゃないと言われれば、その通りなんだけど、別に読み方なんて道具なんだから、レパートリーが多くて困ることも無いだろうと思うので、少し書いてみる。
一つ目は当然、ストーリーの展開に一喜一憂しながら、次の展開に思いを巡らす、というような読み方だろう。基本的には読み方なんて、これだけで十分ではある。ただ、それだと記事にならないので、次にいってみよう。
二つ目は、東浩紀提唱、キャラクターのデータベースを使用した例のヤツを上げてみる。もちろん東浩紀は、それを前提に文学議論を前に進めていくのだけど、この議論は特定の一冊を読むのには役不足過ぎる。読む段では登場人物の記号性を看過して、予定調和性を楽しんだりする読み方だと考えればいい。
ここまでは普通にライトノベルを一定量読めば、だれだって同時に駆動させてる読み方だとは思う。
三つ目は、「セカイ系」とか「決断主義」みたいな言葉を使って、作品を読み解くという方法。時代の空気を敏感にキャッチした言葉を、どれだけ言葉を持っているか、という別の領域の問題が発生する読み方でもある。下手すると自縄自縛する危険性があるので、軽く軽く使った方が具合がいいとは思う。
四つ目は、影響力の系譜的なものを設定して、筆者の作風を分析するという読み方。これも結局、どれだけ作品に触れてるか、という別の領域の問題が発生する。悪く言えば、教養主義的な読み方。
この二つは、ネット上だと限界小説書評あたりが展開してる書評が分かりやすいかな。一定の評価には値すると思うけど、同時に何か違和感を拭えない。こういう読み方を始めた瞬間に、ライトノベルの一番繊細な部分が変質してしまう。そんな他愛の無いことを思ったりもする。
だけど、この限界小説書評にある『狼と香辛料』の書評はちょっと面白かった。ここでは、作中の主人公の台詞を、ほぼ著者自身の言葉と取って、そこから現代社会における認識のモードが提出されている。それ自体は少し牽強付会っぽいんだけど、ライトノベルから愚直に著者というものを汲み取ろうというスタンスが珍しいなと思ったからだ。
もちろん、こういう読み方はライトノベルの大量生産性とかを考えれば、一概に肯定できるものではない。ただ、書いているのは機械じゃないんだから、そういう読み方も時には有効だったりすると思うんだよね。
だから五つ目には、作家の個人性を重視した読み方を挙げる。
とりあえず、こんなところ。読んだ方の読書生活が、少しでも豊かになれば越したことはない。