マイマイ新子の記事の補足

新年一発目は、去年の記事の捕捉ということで幸先悪いのですが、どうにも評判が悪いので書きます。
この映画の原作はそのままズバリ『マイマイ新子』というのだが、映画化の際には「千年の魔法」という言葉が加わっている。
つまり、このアニメの製作者たちは「千年の魔法」という言葉により注目を集めようとしているわけだ。では「千年の魔法」とは一体何なのか。それが作中で明確に説明されることはない。ただその魔法が、新子たちの住む大分の土地に根ざしたものなのが分かるだけだ。
映画の始め方で、新子は自分の家や近くの麦畑、用水路、土の道々をなぞりながら、その想像力を遥か千年の平安の都まで飛ばしていく。この場面は、最終的に新子の住む場所を俯瞰する構図で終わるのだが、私はこれを見ていて、新子が自分の世界の中心にしっかりと足をつけて生きているのを感じた。
思うに「千年の魔法」というのは「人と自然と歴史が調和した」そういう世界のあり方なのだ。そして、これは私の世界から完全に無くなってしまったものでもある。
例えば『社会は存在しない』というセカイ系評論の考の一つ「セカイ系シリコンバレー精神」の中で、セカイ系というのは、グーグルアースとストリートビューという視座を持ちながら、その間の相互的な関係を持たず、グーグルアースからストリートビューへの一方的な関係しかない想像力であると書かれている。
これをより具体例として表現するなら、地図から自分の位置は把握できても、逆に自分の位置から俯瞰的な地図を描けないということになるだろう。現在の都市に住むというのは、そこで生活する人間にそういう想像力を強いてくるものだと思う。
しかし、そこから安易な田舎賛歌を導き出すのは明らかに筋が違う。何故なら、「千年の魔法」というのは人と自然と歴史の調和の所産であって、今の日本における過疎などの現状を見るに、田舎においてもそういう調和は失われているからだ。新子たちのような子供を外からしっかりと見守っている大人たちは、この国にはほとんど存在する余地がないだろう。
これを高度経済成長に犠牲にされた〜という言説でまとめればノスタルジックな社会批判ではあるが、それも間違ってはいないと思う。ただ、私たちがそこに戻るべきだという考えには賛同しない。その犠牲に上に私たちは豊かな生活を送っているし、私自身コンビニの無い生活は耐えられないだろう。だが、豊かさに息苦しくなったとき、そこから抜け出す道しるべとして、失われたものを追体験するのも悪くはない経験だと思う。
少なくとも私にとって『マイマイ新子と千年の魔法』は、失われたものを悼む、そういう映画だったのだ。お粗末。