東浩紀を褒めてみよう。

この記事を読んで、自分もオタ界隈の流行についていかなければと思い。『ゲーム的リアリズムの誕生』を購入し、昨日読み終わる。
別に東浩紀なんて知らなかったよとカマトトぶるつもりは無いし、『Fate /stay night』貶してるのは知ってたけど、基本的にイメージが「清涼院流水を誉めてる変わった人」で止まってた。
動物化するポストモダン』を読んだ記憶では、自分には合わない考え方だったので、どんなものかなと思ったら、やっぱり自分には合わなかった。
まあ、本作にも書いてるある様に、考え方なんて人それぞれなわけだから、否定するつもりも毛頭無いけどね。
ちょっと感銘を受けたのは、東浩紀が自分より美少女ゲームやってるという事実。

筆者の印象に残るタイトルを挙げれば、『Prismaticallization』『AIR』『未来にキスを』『腐り姫』『Ever17』『CROSS†CHANNEL』『マブラブ』『マブラブ オルタネイティブ』『ひぐらしのなく頃に』『ひぐらしのなく頃に解』

という具合である。
それで金貰ってるんだから当たり前じゃないか、という当然の批判はあるんだろうけど。実際問題として、美少女ゲームライトノベルの評論って他の分野に全く潰しが利かないわけで、自分の評論家としての評価とか将来への不安とか考えるところもあるわけじゃないですか。
それでwiki見たら、評論集を講談社BOXから出すなんて、付き合いがあっても普通はありえないと思うんですよ。葉鍵評論の同人誌にもまだ寄稿してるみたいだし、義理堅い人なんだなと感動した。
それで東浩紀という人を褒めたくなったんだけど、普通に褒めて面白く無いので、東浩紀のやってる『Fate/ stay night』批判への考察を絡めてみます。*1

Fate』にはそういう工夫が一切ない。というか、ゲーム性がほとんどない。(中略)それじゃあ逆に、プレイヤーから自由度を奪うことがなにか作品のテーマに深く関係しているかというと、そういうわけでもない。

ほうほう。

そもそもゲームって、プレイヤーにできるかぎり自由度を与えるのが善だというジャンルでもあって、美少女ゲームは、そこに単一のエンドがある物語を乗っけるために、いろいろアクロバティックな手法を編み出してきたわけじゃないですか。『Fate』は、そんな問題意識なんか一切なく、美少女ゲームの形式だけ借りて、マンガやアニメをシミュレートしてるだけ、という感じがした。

ふむふむ。

『ガンパレード・マーチ』では戦いから降りることを選択できる。そもそも、本当の悩みどころは、ガンダムに乗るかどうかの選択にあるわけで、個々の戦闘で左に飛ぶか右に飛ぶかなんて選択は悩みとは言わない。そういう意味では、『Fate』の主人公は最初からガンダムに乗っているわけで、うまくいかなかったらバッドエンドというゲームでしかないわけでよ。これはたいへんな後退なんじゃないか。

ほほう。

ササキバラさんは、ノベルゲームとはプレイヤーが責任という快楽を感じるゲームだと定義していたわけだけど、ここにはそんな高級な快楽は存在しない。

なるほど、なるほど。

Fateの主人公には)内面がないし葛藤がない。『機動戦士ガンダム』以前の少年の造形だと思う。むしろ『宇宙戦艦ヤマト』に近いでしょう。古代進ってなにも悩んでなかったじゃない(笑)。なんのために宇宙戦艦乗ってんだとか、ヤマトって無意味なんじゃないかとか、地球なんて滅びちゃえばいいとか、古代は絶対思わない。一九七九年に『ガンダム』が現れて以降、そういう能天気さは通用しなくなって、その屈託こそがオタク的想像力の強度を支えてきたと思ってたんだけど、『Fate』はそういうのをすべて吹き飛ばしている。

これはちょっとアレだなぁ。

メッタ切りですね。奈須きのこ好きとして感情的に反論したくなるけど、この評価は東浩紀の立場からしてみれば当然の様に見えるし、むしろ東浩紀奈須きのこ という作家の優れた読み手であることを示唆しているように思います。
まず一ブロック目
いきなり中略されてるからアレなんですが、「そういう工夫」は文脈上から「ゲーム性」と同意味で問題無いと考えると
Fate』では作品上の必然性と別の理由で、本来的にビジュアルノベルに付随しているはずのプレイヤーへの自由度が奪われている。
と東氏は主張しています。個人的には、この意見には反論の仕様がありません。何故なら、私には主人公が死にまくる理由をゲーム内で説明出来ませんから。あのBADEND群をかろうじてゲーム内に留めてるのは、本来ビジュアルノベルには無いタイガ道場というシステムの存在であると思います。
逆に言えば、そこまでしてもビジュアルノベルの自由性を奪わんという妄執みたいなものが奈須きのこには有るわけだけど、この文からは東浩紀はそれを看過しながら、それをあえて言及していない様にも見える。

二ブロック目
反論だけすれば、ゲーム一般の方向性は置いておくとして、奈須きのこビジュアルノベル演出における問題意識が無いとは思いません。日記でADVだけど『Forest』みたいな演出に狂ったゲーム絶賛してるし。
しかし、『Fate』が一通のシナリオを志向した作品なのは確か。その結果として、漫画やアニメ的に見えると言われれば、仕方が無いのかなとも思います。

三ブロック目
ガンパレード・マーチ』やってないから明言は出来ないけど、東氏が言ってるのは、聖杯戦争を降りる選択肢を作っているのに、その選択の結果がBADEND行きでは、選択そのものを否定されているのと同じではないかということかな。
そして、それでは方向的に『月姫』より後退してるという主張です。
これは一ブロック目の言い換えである以上、個人的にはほぼ同意できる。
あえて反論すれば、その後退が奈須きのこにとっては前進なわけですよね。結局、東浩紀の『Fate』批判の根本にあるのは、奈須きのこという作家を読み違えたことなんだと思います。
だけど『Fate』には、英霊システムという東浩紀を釣らんばかりの意地悪な仕掛けがあります。これはもしかしたら、東浩紀の著作を読んでから思いついたんじゃないか。と思わせるほど、皮肉な仕掛けです。
これに引っ掛からなかっただけでも、東浩紀が評論家として美少女ゲームを真面目に読んでる証拠。ここまで否定的なのは、一度褒めた関係上、否定する時は完璧にしないと、勝手な誤読を招くと考えたからじゃないかな。英霊システムにマジで頭に来た可能性もあるけど。
四ブロック目
責任という快楽の高級さは知りませんが、『Fate』にはプレイヤーの責任による選択は無いという主張ですね。
ほぼ一本道のゲームだから、否定しようがないと思う。
五ブロック目
これは流石に肯定できないですね。全否定でもいいけど、褒める目的だからフォローすると、この主人公に共感出来ない。そういうのってビジュアルノベルの主役としてどうなのか。という主張なのかな。
主役キャラに対するプレイヤーの自己同一視的な側面の話なんだけど、これは個人差あるし、坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な匂いはする。
五ブロック目を除けば、間違ったこと言ってないと思う。
もちろん私は、ビジュアルノベルというスタイルから本質的な選択という概念を奪い取る暴挙に出た奈須きのこという作家の特異性を高く評価するわけだけど。
それを評価しない立場に東浩紀は当初から立ち続けてたように見える。だから、適度にお茶を濁せばいいのに、『Fate』なんかメッタ切りなわけだ。これは限度はあるにしても、東浩紀が誠実さを持ったサブカル文芸の優れた読み手の一人であることを示唆してると思う。彼のこれからのさらなる活躍に期待している。
褒めたことになった?

*1:原典は『美少女ゲームの臨界点HajouHakagix)』らしいんですが、ネットからの孫引きなので、引用文が間違ってるかもしれない。そこは許して欲しいけど、前後の文章との関係から見て明らかに文意が間違ってた場合は、指摘して欲しい。孫引きは、東浩紀の文章を批評する日記さんからしました。