邪悪ヒロインという可能性

自主規制の中で、ヤンデレ達が散っていく悲しさ。まあ、弾圧すると結束が強くなるのは歴史が証明してるし、長期的に見ればヤンデレというジャンルにはプラスなのかもしれない。それ以前の大問題であるのも確かだけど。
しかし、実際に規制がかかる以上は、ヤンデレとしての表現を物理面からより精神面にシフトする方向を模索するのも当然一つの手だとは思うんですよね。
そこで、邪悪ヒロインというジャンルに脚光が浴びないかと、ファル様好きとしては考えるわけです。
キーワードに書いてある様に邪悪ヒロインヤンデレの違いを説明するのは難題なんですが、他の視点を導入して差を説明してみようかと思います。視点は何でもいいんだけど、とりあえずツンデレが手ごろでしょうか。
ツンデレというのは、ヒロインがツンツンしてるのに理由があって、その理由が主人公との関係性の中で解決されてデレデレになるのが王道だと思うんですよ。
つまり、どれほど厄介な外部的な関係性(問題)が存在しても、結局は主人公とヒロインの内部的な関係性が全ての鍵を握るわけです。外から始まって内に収束する物語とでも言いましょうか。*1
それに比べて、ヤンデレというのはキーワードの定義に従えば、最初にあるのはヒロインの気持ちという純粋に内部的な事柄であって、問題も如何にして主人公と気持ちを交わすか。みたいな内部的な関係性に終始する。
それだからこそ外部が重要なポイントなんですよ。つまり、簡単に移ろう心情を問題視すればするほど、それに固執するヒロインは、心情の一部しか表現しえない主人公の外部的な関係性(行動)に過敏に反応せざるえないわけです。内から始まりながら外に拡散する物語。*2
こういう観点から邪悪ヒロインを見ると、ひたすらに独りで、ずっと拡散してるか、あるいはずっと収束してるのが、特徴だと言えるかなと思います。
少し詳しく説明すると、前者は極端な利己主義者みたいなタイプが当てはまります。様々な理由により個人的な倫理観が希薄で、富とか権力とか名声とか求めてるんですが、それに本当に魅力を感じてるのかと聞かれれば、自分でも疑問みたいな感じのキャラ。主人公との関係も、そういう価値観の中で自分にとって有益かで認識しますが、ある時点で価値観の中心が主人公にシフトする場合もあります。
具体例を上げれば、『シンフォニック・レイン』のファルシータ・フォーセットなんですが他には『遥かに仰ぎ麗しの』の榛葉邑那とかかな。*3
類例に、とりあえず人間を演じているタイプなどもありますね。
後者は極端な自己中心主義タイプとかでしょうか。ひたすらに自分のルールだけで動いてる。自分の好きなように生き、邪魔者は必要とあらば殺す。知性が高い設定だと他人を裏から操作し始めたりしますね。
主人公との関係は、普通に恋愛したりもしますが、ある種のナルシズムの気配が漂ったり、基本的に恋愛によって性格そのものは更正しません。
例を上げれば、『鬼哭街』の孔瑞麗とか『狂った果実』の月島美夏。
類例は、殺人鬼タイプかな。
何処が魅力なのかと言われれば、ヤンデレは病む過程に重点を置くことが多いみたいですが、邪悪ヒロインは既に病んでる部分があって、それがイベントの中でじわじわ出てきたり、突如として発現したりするパターンが多い。*4
その時に突如、過去の台詞の意味が全て変わったりするのも、物語読みとしては楽しい。
あとは、この邪悪さであり狂気を書いてるライターは当然狂人では無いので、邪悪ヒロインには人間性の戯画の面があって、極端ではあるけど理解は出来るんですよ。
その時に、自分の中に立ち上がって来るヒロイン像が深いんだよね。普通のヒロインには感じないアンビバレンツさみたいなものが邪悪ヒロインにはあって、その常時存在するギャップ萌えみたいなのが、魅力の一端かとは思います。
他にも幾つか思いつくけど、それは「ヤンデレ考」かなんか書こうと思ってるので、その時に。
別に刃物を振り回すだけが、胃をキリキリさせる殺り方じゃないので、この騒動を踏み台にヤンデレ表現が更なる発展を遂げることを祈ってます。

*1:どんな障害があったて、愛の力で越えてみせるわ的なノリ

*2:私のこと愛してるなら、他の女(障害)ことなんか気にならないはずでしょ的なノリ。

*3:邑那はちょっと弱い気もしますが、足りない分は理論上モデルに当たる堤義明から補ってください。萌えって凄いよね、本当に。

*4:ヤンデレという言葉を最初に聞いた時にはデレって、このパターンを指してるんだと素で勘違いした。